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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      裁判権
 朝倉氏が領国において公的権力として存続していくためには、裁判権の掌握とその適切な遂行が必要であった。斯波氏の守護裁判権は室町中期には一般的に成立していたと思われるが(資8 西福寺文書一一〇・一一五号)、この裁判権を朝倉氏が継承したものと考えられる。
写真190 「朝倉家之拾七ケ条」(部分)

写真190 「朝倉家之拾七ケ条」(部分)

 裁判を公平かつ迅速に行なうためには、客観的な規範としての法が必要であった。朝倉氏の掟としては、朝倉家では従来「朝倉敏景十七箇条」と称されてきたものがこれに相当する。しかしこの掟の呼称も、「朝倉英林壁書」(黒川本)あるいは「朝倉英林入道子孫へ一書」(新井白石本)など一定せず、また一般に一七か条と称するものの、黒川本の「朝倉英林壁書」などは第五条「四座の猿楽」に第六条「夜能事」を付加して一六か条編成になっているなど、原題というべきものはなかったものと思われる。この一七か条は朝倉孝景(英林)が制定したものとするが、内容から判断すると疑問も残り、「天下静謐たりといえども」(第三条)との文言や、一乗谷城以外の城郭構築の禁と家臣の一乗谷集住(第一五条)、領国内の文化振興(第五条)など、戦乱に明け暮れた英林孝景のころの時代背景とは必ずしも一致しない。松平文庫所蔵「朝倉家之拾七ケ条」の冒頭が、「朝倉永林子孫への一かき、ある夜、朝倉太郎左衛門尉物かたりいたし候ける」の文言で始まることから、「朝倉宗滴話記」と同様に、朝倉宗滴の家臣の萩原八郎右衛門尉宗俊がまとめたもので、つまりは朝倉宗滴の編成によるものであろうか。内容は、「一本の名刀よりも百本の槍が有用」(第四条)とされるように、実利的・合理的色彩が濃厚な、朝倉家の家訓または戦国武将としての教訓書ともいうべきもので、領国裁判の法として用いうるようなものではなかった。
 近代以前においては裁判組織は行政組織から分離されていないので、朝倉氏の裁判組織は奉行人や奏者の組織と同じであり、敦賀・大野両郡の郡司は郡内裁判権をもち、府中両人は管内の郡内において訴訟審理にあたった。ただし朝倉氏末期の敦賀郡司支配権内および府中両人管轄権内においては、一乗谷当主の支配権が裁判権についても強められた。そのほか、朝倉氏一族およびそれと同じような家格を認められている者はその領地において裁判権を行使した。大永四年の今立郡池田上荘における千代丸番の帰属地をめぐる相論は、荘民たちから「御上様」と称されているこの地の支配者(鞍谷氏か)が裁決を加えている(資6 上島孝治家文書八・一三号)。また天文十六年に丹生郡糸生郷でおこった逃亡百姓の買得地跡についての相論裁許状には朝倉教景(宗滴)の家臣が裏判を加えているから、これは教景の裁判権を示すものと判断される(資5 野村志津雄家文書四号)。
 中世では警察権と行刑権を合わせたような権限を検断権と称したが、この検断権も一乗谷朝倉氏や郡司がもつのが基本であり、いくつかの史料に「公方闕所」とあるのは、朝倉氏の検断によって罪科人とされその持ち分を没収されたことを示す。
 しかし、すべての検断権を一乗谷朝倉氏や郡司が独占していたわけではない。朝倉氏一族で丹生郡織田荘本庄を支配していた朝倉時景は罪科人跡として名の下地を没収していたとあり(資5 劒神社文書二二号)、天文八年に大野郡護法寺村を「上下共ニ一円進退」していた平泉寺賢聖院はこの村について「公文職ならびに人足、闕所検断、諸被官人を云わず進退」と記し、誰であっても検断の対象となるとしている(資7 白山神社文書二号)。また弘治三年(一五五七)に三輪藤兵衛尉の知行分である南条郡池上において逃亡人が出たとき朝倉氏は、この池上は三輪氏の「居住」の地であるから、逃亡人の家は三輪氏が壊し取る(解体して運び去る)のが当然であるとしている(資2 松雲公三九号)。逃亡人の家屋没収は古くから知られた検断権行使の代表的な例であるが、本拠地として土着性の強い支配権をもつ「居住」の地においては、朝倉氏家臣にこのような検断権が認められていたのである。



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