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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      大野郡司
 大野郡でも、応仁元年(一四六七)ごろの斯波氏の代に「郡司」の存在が確認されるが(資2 醍醐寺文書一三九号)、これを継承して朝倉氏も断続的ながら大野郡に郡司を置いた。まず大野郡平定後、英林孝景の弟慈視院光玖が郡司の任にあり、明応三年の光玖死後にはしばらく一乗谷朝倉家の直接支配となったが、大永年間ころから四代孝景の弟である孫八郎景高(右衛門大夫)が郡司となった。しかし兄の孝景との間が不和となって、天文九年(一五四〇)九月ころ没落したのち一六年間は再び一乗谷朝倉家の直接支配となった。永禄九年には義景の従兄弟朝倉景鏡(景高の嫡子)が足利義秋から式部大輔に任ぜられ、朝倉同名衆のなかでも特別に高い地位を得て大野郡司となった。しかし天正元年(一五七三)八月に朝倉義景を裏切って織田信長に降り、信長より郡司職を安堵されたが、翌二年二月蜂起した一向一揆に滅ぼされた。



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