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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      敦賀郡司
 敦賀郡では、文安年間(一四四四〜四九)ころに「郡代下知ニより」とあるように(資8 西福寺文書一一六号)、すでに斯波氏の時期に守護代から下達を受けた「郡代」が存在したが、朝倉氏はその制度を継承して郡司を配置したと思われる。その初代は朝倉孝景の弟の遠江守景冬で、その発給文書から考えてすでに文明四年(一四七二)にはその職にあった。明応四年九月二十日の景冬の死去後(『雑事記』同年十月二日条)、その子の孫四郎景豊がこれを継承したが、文亀三年(一五〇三)四月三日、宗家に対して謀叛をおこして滅亡したのちは、この乱の平定に功績のあった朝倉教景(宗滴)に恩賞として郡司職が譲与された。享禄四年(一五三一)ごろ教景は養子の孫九郎景紀(四代孝景の弟)に郡司職を譲り、さらに景紀は永禄初年ころ嫡男孫九郎景に郡司職を譲るが、永禄七年(一五六四)九月二日に景が加賀の陣中で自害すると、その弟の中務大輔景恒がこれに替わった。しかし元亀元年(一五七〇)織田信長の金ケ崎城攻めで景恒が敗北して永平寺へ入寺してしまうと敦賀郡司は名目的な存在となり、そののち朝倉氏滅亡までは敦賀郡は朝倉宗家の直接支配地となった。なお西福寺文書などの史料によると、永正三年以降に郡司のもとに郡奉行や下代の組織が存在したことが確認される。郡奉行は宗家朝倉氏の内衆の分家や郡司の内衆が、下代は敦賀郡内の地侍級が任命されていたらしい。



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