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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      府中奉行人
 府中奉行人制は、斯波氏のときに府中に在駐した小守護代(守護代々・又代とも称し、二名がこれにあたった)の制を踏襲したものである。英林孝景の代にはその弟の慈視院光玖が府中代官を勤め、氏景の代になって青木・久原の両名が府中奉行人となったが、明応五年(一四九六)の府中奉行人連署状から青木・印牧の両名に替わり、以後朝倉氏滅亡まで両氏が代々この職を世襲した。府中奉行人は、一乗谷奉行人の下位にあって、その近辺の南条郡・今立郡・丹生郡のほぼ全域の主に民政にあたった。 
写真189 朝倉氏府中奉行人連署書状(瓜生守邦家文書)

写真189 朝倉氏府中奉行人連署書状(瓜生守邦家文書)

 府中奉行所管轄下の訴訟は、まず府中奉行所に提訴され、先例の証跡などで裁決が明白な場合はただちに府中奉行によって裁決が下されるが、複雑な訴訟や内容的に上級支配権に属する場合は、同奉行所での審理の経緯や意見を注進状にまとめて一乗谷に送付し、朝倉家の裁決を求めた。なお、「府中奉行」の呼称は大永四年(一五二四)の「平泉寺臨時児流鏑馬入用帳」にのみ徴証され(資7 白山神社文書一号)、その他の史料では「府中両人」「府中両所」とある。



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