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 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     三 領国支配機構
      一乗谷奉行人と奏者衆
 朝倉貞景の代には、「朝倉孫次郎・両奉行前葉(前波)豊前守并小泉藤右衛門方へ遣状也」とあり(『北野社家日記』延徳二年四月十一日条)、また坂井郡河口荘段銭についての書状充名として「三奉行 前庭(前波)豊前守・青木三郎兵衛尉・印牧新さ衛門尉」がみえ(『雑事記』明応三年十二月三十日条)、さらに「評定衆六人有り」とあることなどから(『蔭凉軒日録』延徳四年正月三日条)、すでに評定衆や奉行人制のあったことが知られる。これをふまえて、奉行人が連署して発給する一乗谷奉行人奉書が創出されるのは永正期(一五〇四〜二一)以降と考えられる。
写真187 福岡吉清書状(大連三郎左衛門家文書)

写真187 福岡吉清書状(大連三郎左衛門家文書)


写真188 朝倉氏一乗谷奉行人達署奉書(同上)

写真188 朝倉氏一乗谷奉行人達署奉書(同上)

 一乗谷奉行人は朝倉家当主の命を奉じて政務を執行する者で、二名から四名の奉行人がこれにあたった。奉行職に任命された家は、朝倉掃部助家・朝倉玄蕃助家(越中守家)・魚住・河合・小泉・前波のほぼ六家で、これらが独占し交代で世襲した。このうち両朝倉家は同名衆ではあるが、いずれも英林孝景以前に分家した庶流と考えられ、他の四家は朝倉氏の内衆であるが、根本の被官人は前波氏のみである。しかしいずれも朝倉孝景の越前平定期に朝倉氏とともに活躍した家臣たちであった。
 一乗谷奉行人のほかに、朝倉当主の側近には奉行人と同様に同名衆や近臣衆から任命された奏者衆が存在した。奏者は朝倉当主の命や意向を一乗谷奉行人に伝達する役目のほか、給人・寺社や民間からの訴訟を取り次いだり、ときには訴訟においてその弁護役を勤めることもあった。なお義景の末期になると、一乗谷奉行人奉書が厳然と存在しながら、奏者衆と思われる鳥居景近・高橋景業による異例の連署奉書も発給されている。両名は義景が寵愛した側近の臣と考えられ、義景による専制化指向の意図がうかがわれる(本章四節四参照)。



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