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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    四 農業の安定化と用水
      用水と惣的結合の展開
 中世後期の河口荘の事例では、河口荘の名主・百姓らが豊原寺領との水論の用意のために興福寺大乗院へ出向いたり(『雑事記』明応七年七月五日条など)、前述のように十郷百姓らが自ら十郷用水の用水取入れ口である鳴鹿井堰の普請を行なっていたように、河口荘内部において用水の管理に農民層が直接関与するようになっていった。このことは十郷用水を基軸として郷どうしの地縁的な惣的結合が展開したことを示すものであろう。また天正六年に柴田勝家が十郷用水普請について定めた条々によれば、柴田勝家の指示によって「郷中」において用水普請についての取決めが作成され、それが勝家に披露されたことを伝えるほか、用水普請について難渋する在所があれば制裁措置として残りの「郷中」として分水を停止することなどを規定している(資4 大連彦兵衛家文書一号)。これは近世初頭の事例ではあるが、中世後期の河口荘において用水の共同管理・利用を背景とした広域にわたる惣的な結合が進展し、河口荘十郷の「郷中」が自治的な構造と機能を有していたことを示すものといえよう。近世初頭に「村切」が行なわれる以前は、戦国大名権力も惣的結合を認めつつ間接的に用水支配を行なわざるをえなかったことが推測される。



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