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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    四 農業の安定化と用水
      水論の発生とその裁定
 荘園領主以上に荘園内で直接生産に関わる農民にとって用水は重要であり、中世を通じて用水の配分や用水施設などをめぐる相論、いわゆる水論が旱魃などの災害を背景としてしばしば発生した。南北朝期から室町期の水論の例として、吉田郡河合荘では応安五年(一三七二)荘内の貞正名用水堤を春近郷代官千秋氏の代官が春近郷内と称して違乱したり、同荘の用水であった磯部荘内小太郎堤を切り落としたりするなどの事件がおこった。訴人の河合荘雑掌は往古の例に任せて河合荘が堤を領掌すべきと主張し、重ねて春近郷の違乱を停止すべき旨の将軍家御教書の発給を求めた(資2 醍醐寺文書六一号)。また応永十年の臨川寺領三方郡耳西郷の例では、同郷の用水を興道寺雑掌が「先規に背き違乱」したことを守護代小笠原氏が「謂無し」と下知し、興道寺雑掌の用水違乱を停止しようとしている(資2 天龍寺文書二四号)。
 次に戦国期の事例であるが、享禄二年(一五二九)には南条郡府中広瀬村から「大虫之社・岡本・太田野三ケ村」に対し輪番に通水していた用水を止めるよう訴えが出された。これに対し朝倉氏の府中奉行人青木景康・印牧美次は「何篇水の事は先規通りの如く」とし、それでも子細があれば一乗谷の朝倉氏のもとへ「出谷」のうえ訴えるべきことを広瀬村の地頭・百姓中に申し届けるという形で朝倉氏府中奉行人が水論の裁定を行なった(資6 田中四郎兵衛家文書一号)。また戦国末期の三方郡南前川村と藤井村の水論のさいには、南前川給人の山県式部大夫と久村孫四郎が水論の裁定を行なおうとしたものの、戦国末期に三方郡を実質的に支配していた粟屋越中守と熊谷氏の家臣が「御奉行」として従来の用水をめぐる先例・慣行を確認し、水論の決着が図られている(資8 野々間区有文書三号)。これらの例が示すとおり、一般に中世における用水相論は用水施設や引水権の先例を争点として争われ、守護などの上級権力も用水に関する先例の遵守を命じる方針をとっていた。このことは中世村落間における用水の管理・利用をめぐる番水制などの諸慣行が在地に強固に存在していたことによるものと考えられる。
写真169 十郷用水取り入れ口(丸岡町東二ツ屋)

写真169 十郷用水取り入れ口(丸岡町東二ツ屋)



写真170 朝倉氏一乗谷奉行人連署定書(大連三郎左衛門家文書)

写真170 朝倉氏一乗谷奉行人連署定書(大連三郎左衛門家文書)

 十五世紀後半に朝倉氏は越前一国の領国支配権を掌握したが、これ以降の朝倉氏による用水相論の裁定の事例は右に挙げたもののほかにも数例確認される。越前・若狭ともに旱魃の年であった天文二十二年の河口荘十郷用水をめぐる水論の場合、十郷給人百姓数十人はこの水論の収拾を図るために一乗谷で訴陳を展開していたが、在地では人勢が打ち出でて「一戦に及ぶべく」というような緊迫した事態となっていた(資2 春日大社文書一〇号)。また、享禄二年には今立郡月尾郷と別印四方が別印の川水の分水をめぐって争った。これに対し、朝倉氏府中奉行人は有力寺院でありかつ別印四方の領主とも推定される日円寺の同意のもとで、「十ケ日ニ壱度壱日壱夜宛」別印四方の用水を塞いで月尾郷に通水するように「申定」めている(資6 矢部宮秋家文書一号)。天文六年には河口荘十郷と隣郷東長田の用水相論がおこり、朝倉氏一乗谷奉行人は十郷百姓による鳴鹿井堰の普請が「不届」であったことにより相論が発生したと裁定を下して再度普請を命じた。裁定では筒木・樋などの分水施設の寸法を寸・分単位まで細かく規定しており、十郷用水の維持・管理のために朝倉氏が検使を派遣するなど、十郷用水に相当の関心を払っていたことがうかがわれる(資4 大連三郎左衛門家文書一号)。また戦国末期に大野郡印内村で水論が二件発生したさいには、朝倉義景によって陏林・福阿弥なる者が現地に遣わされ、内々に用水を分水して水口に通したり、夜七ツ時から「ばう(棒)を立影なしをかきり」昼まで通水するという方法が両者から示され、この方法による通水が実際に行なわれた(資7 五畿屋文書二号)。
 従来、荘園領主・国衙が用水支配権を個別的に保持していた段階では、用水相論は荘・郷間の対立の形をとる場合が多かったと推測される。しかし中世後期に荘園領主・国衙の支配が後退するのにともない、越前では朝倉氏給人・名主百姓らが用水支配権を掌握するようになり、彼らは給人衆中や百姓中として相論の当事者となっていった。したがって戦国期の用水相論は、給人・名主百姓が支配する比較的狭い地域の引水権をめぐるものが多かったと考えられる。ただ前述の諸例からもわかるように、戦国期越前の水論のさいには朝倉氏は相論の解決を給人にゆだねず、裁定の仲介者を立てたり使者を派遣したりして、従来から在地に続いていた用水慣行をふまえつつ裁定を下し、郷村内で自律的な諸慣行が形成されにくい場合には新しく用水秩序を設定することも行なわれていたことが知られる。また朝倉氏が積極的に用水相論に関与していったのは、荘園領主・国衙に代わって在地の土豪・惣村が勧農の主体となることによって用水をめぐる自律的な諸慣行が郷村内で形成されつつも、時として隣接する複数の郷村間の争いや郷村内の争いが生じ、大名の裁定を必要としたことを示すものであろう。戦国大名朝倉氏は、郷村内で形成された自律的な用水慣行を追認・保証することを、また用水相論のさいにはその調整者としての役割を求められたとすることができよう。給人・名主百姓を統制しうる戦国大名権力が水論を裁定することにより、同一の用水水系に属する諸郷・村の引水権が調整されていくようになったと考えられる。



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