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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    四 農業の安定化と用水
      越前・若狭の用水
 中世の農業生産が気象・地形などの自然条件の影響を強く受ける不安定なものであったことは容易に想像される。このような中世の農業生産において、用水のもつ意味はとりわけ大きいものがあった。中世若狭の荘園の多くは小河川から比較的水を得やすい山間部の谷あいなどに分布しており、用水は概して小規模であったとみられる。一方、広大な沖積平野が広がる越前では潅漑のための大規模な用水が不可欠であった。
写真168 本庄郷春日社(芦原町中番・下番)

写真168 本庄郷春日社(芦原町中番・下番)

 九頭竜川から取水する十郷用水は中世越前の大規模用水として特に著名である。十郷用水は吉田郡鳴鹿の鳴鹿井堰で取水し、吉田郡河合荘・坂井郡春近郷などに分水してから坂井郡をほぼ北西に向かって貫流して河口荘十郷のうち細呂宜郷を除く九郷を潤す越前最大の用水であった。それはまた河口荘の本所興福寺大乗院において「神徳に依り鳴鹿河(十郷用水)出来、一荘満作干損無し」と主張されたように(「春日社毎日不退一切経方条々」)、北陸では最大級の荘園の存立に欠くことのできない重要な用水であった。天永元年(一一一〇)に河口荘本庄郷の式内社井口神社の旧地に春日神が勧請されたのをはじめとして、十郷用水の諸郷への分水口にあたる地点には春日神が勧請・分祀された。河口荘十郷に祀られた十社は諸郷の鎮守社と位置づけられ、また十郷用水をめぐる諸伝承から知られるように、興福寺は河口荘十郷支配の基礎となる十郷用水の支配権が春日社とそれを支配する興福寺に帰属することを主張していた。また建武二年(一三三五)には、河口荘に国司代・守護代・坪江郷住人らが乱入するという事件がおこったが、このさいに興福寺は「鳴河(鳴鹿)用水事」つまり十郷用水のことについて現地に下知を加えてその保全を図ろうとしている(「御遂講雑類風記」裏文書)。
 荘園領主は荘園支配の基礎となる用水の造成・維持・管理のため、また他領の田地から用水を通すさいの掘敷料とするために、除田のうちに一定の「井料田」を設定したり、年貢から井料米を控除し勧農経費として惣荘に下行したりした。弘安十年(一二八七)の河口荘の場合、河口荘十郷全体の都合米三〇八二石余のうち「御庄下用米」の一部として荘に留保された井料米は五六石五斗にも及んでいる(「河口荘田地引付」)。また永享十二年の大野郡小山荘佐開郷では、田数三町一段内の除田のうちに「樋料」七段と「井料」一段が設定されており、真名川から取水するための樋などの用水施設の維持・管理にかなりの費用が充てられていることが知られ(資2 天理図書館保井家古文書五号)、年貢を収取する荘園領主の側において用水の維持・管理が重大事であったことを示している。



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