目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    四 農業の安定化と用水
      農業の集約化
写真167 田植田楽図(「月次風俗図屏風」)

写真167 田植田楽図(「月次風俗図屏風」)

 中世においては農業の集約化の動向も顕著であった。例えば室町期の太良荘の名主泉大夫の財産目録には、さまざまな貨財とともに「犂」やそれを曳かせるための「牛三疋」が書き上げられているが(ハ函二三九)、田地の耕耘などにさいして、自己の下人に加えて周辺の小百姓などの農民をも労働力として編成していた上層農民の農業経営のあり方がうかがわれる。南北朝期の太良荘の例では、「本在家・脇在家」の財物として「馬・牛」が(ハ函四二)、また黒神子という小百姓の財物として数種の鉄製品とともに鍬が挙げられている例もあり(し函一七)、遠敷市に代表されるような常設市の成立がみられた室町期には、犂・鍬などの鉄製農具や耕耘用の牛・馬を比較的容易に入手できる条件は整い、越前・若狭においても鉄製農具の使用と牛馬耕はかなり広範に展開したとしてよいと思われる。中世には稲作の技術も向上したとみられ、嘉元三年(一三〇五)の太良荘百姓申状には「早米・早田」「中田」「晩田」などの語がみえ(ヱ函二八)、若狭では鎌倉期には稲の品種分化の成果を取り入れた稲作が行なわれていた。これは、八月上旬の大旱魃のさいに晩田の用水として井を落としたという事例からも知られるように(ほ函八)、用水を有効に利用する方法として農法上大きな意味をもち、作付時期をずらすことにより干害・水害などの被害を分散させるという点で中世農民の農業の安定化の願いに合致するものであった。また弘長二年(一二六二)五月の太良荘末武名名主職をめぐる抗争では、係争中の名の「御みやうてんKむき」の刈取りが企てられ、守護代がこれを停止するために点札を立てた(『教王護国寺文書』六五号)。また南北朝期の延文六年(一三六一)四月に麦(秋蒔麦)が「ソモ」による被害を受けたさいに、太良荘の農民は「作麦を以て産業を遂げる」ことは諸国同じであることを主張し、「ソモ麦」を添えて被害の実情を東寺に伝えて検見使の下向を求めている(ハ函五四)。このように若狭では水田の裏作に麦を作付する二毛作は鎌倉期から部分的に普及・展開しつつあり、それは太良荘の農民が主張したように畠地の粟・大豆・麻・桑などの栽培とともに農業経営のうえで重要な意味をもつものであった。また、二毛作の展開の背景には地力回復のための工夫と田地の乾田化の動向があったことも推測される。
 中世後期の越前・若狭において中間得分としての加地子得分(内徳)の成立がみられたが(本章四節一参照)、このことは以上の事例が示すような中世における農業の安定化・集約化とそれにともなう農業生産力の上昇を裏づける現象の一つとしても捉えられる。中世後期において、加地子得分を手元に留保しつつ、また小規模開発地を「隠田」「堀田」などとして集積することによって、中世農民の農業経営は徐々に安定の方向に向かい、ひいては小百姓層の成長が徐々に進展していったと考えられる。この動向は戦国期から近世初期にかけての、村落内身分の変化による上層農民と下層農民の対立として現われる。例えば天文五年(一五三六)には、南条郡池大良で番頭中野兵衛と間人らが、「番頭手作分」いわゆる手作地と人夫徴発とみられる「日追公事」の日数をめぐって争い、結局手作地については番頭の既得権が認められたものの日追公事は年三日に制限され、手作地の制限の動きと間人などと称される下層農民の成長が進行していたことをうかがわせる(資6 中野貞雄家文書一号)。また天正五年(一五七七)の柴田勝家による検地にさいして、丹生郡田中郷京方の大百姓と小百姓が名請地の配分や夫役負担などをめぐって争った事例もあった(木下喜蔵家文書二号『福井県史研究』一〇)。



目次へ  前ページへ  次ページへ