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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    四 農業の安定化と用水
      中世の開発と農業の安定化
 坂井郡内の「高串葦原」九町余の土地の四至が確定され、開墾が手掛けられたことを契機として古代の東大寺領高串荘が成立したように、古代において沖積平野の開墾を中心とした国家的かつ大規模な開発の動向がみられたことは周知のとおりである。これに対して中世では、荘園制の展開によって国家的な開墾・開発事業が事実上不可能となり、また平野部について当時の技術で開発しうる部分は限られていたので、このような大規模な開発の動向はみられなかった。しかし中世の越前・若狭において、小規模な田地の開発はさまざまな階層の人びとの力によって行なわれた。時代・地域により開発の様相は異なり、また開発の実態を具体的に示す史料は乏しいが、水害などの被害を受けやすい不安定な田地を再開発して安定化したり、「田地之興行」として荒地や荒廃田を開発・再開発したり、主に一般の農民たちの手によって従来耕地に不向きとされた荒地を対象として「沢田」「河原田」などと称される零細な耕地を開発したりするなどの動きがあった。
 遠敷郡太良荘の場合では、暦応年間(一三三八〜四二)の地頭方年貢算用状などによれば、「荒堀溝代」などの名目の費用一石余が年貢から差し引かれており(ハ函一〇・三〇、オ函一八など)、南北朝期に地頭方の土地に溝の造成費用が投下されて潅排水施設が設けられていったものとみられる。このような方法で太良荘地頭方にやがて「新荒堀田」「荒堀」と称される田地が開発されていった。本田一段の斗代が一石だったのに対しこれらの田地は段別八斗の比較的低い斗代が設定され(ハ函一四)、段別一〇〇文の請料で地頭方の百姓が作人として耕作した。
写真166 太良荘樋差図(と函一五四)

写真166 太良荘樋差図(と函一五四)

 また太良荘が広がる太良谷の谷口部は平野部を貫流する北川の後背湿地にあたり、ここには「洪田」という地目が示すように水害の被害を受けやすい不安定な田地が広がっていた。永和年間(一三七五〜七九)にはこの洪田に溝を掘り排水を改善する試みがなされ、永享四年(一四三二)から文安四年(一四四七)までは地頭方の「くたた」(朽田か)に「溝」「河」を掘りつけて排水を行なっていた(ハ函二二九)。ところが、文安年間の大地震により山崩れが発生して「大塘」が高くなり排水不良となったので、太良荘半済方給人山県氏の代官山内氏の「当座配立」(応急の措置)と百姓らの「沙汰」によって伏樋(埋樋・洪田樋)が埋設されるにいたり、さらに低湿地の排水改善が図られていった(ハ函三二六・三二八)。しかしこの伏樋による排水は、隣接する今富名では名内の田地に悪影響を及ぼすとされたため、伏樋をめぐって寛正年間(一四六〇〜六六)に今富名との間に相論が発生した。この相論の結末は不明であるが、相論の訴陳の内容からみて洪田樋の維持・管理に実際に在地性をもつ武士とみられる山内氏が関与し、技術的にも注目される伏樋を手段として推し進められた排水の改善は、室町期には領家東寺ではなく半済方の指導力と農民たちの労力をもって進められていった事態がうかがわれる。この事例が示すように、荘園領主・荘官層に代わり山内氏に代表される在地の武士たちの力によって洪田のような不安定耕地を再開発し、安定的な田地を徐々に増加させていった事例は、広範にみられたと推測される。
 また一方では、一般の農民たちによる開発もさかんに進められた。坂井郡坪江上郷の場合、鎌倉末期ごろには本田五八町余とは別に一九町余の新田が成立していた(「坪江上郷条々」)。また坪江上郷にやや遅れて開発が進んだとみられる坪江下郷においても、室町期には本田八二町余に対して一六一町余の新田が成立していることから(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)、荘民による開発行為が進展していたことが推測される。坂井郡河口荘では室町期において鴫池という池が新しい「御供米之下地」と主張され、その領有をめぐる争いが発生していたことから(資2 福智院家文書七号)、埋立てや排水などの手段によって池沼を含めた低湿地の開発・田地化も進展していったことがうかがわれる。一方大野郡小山荘の例では、応永年中(一三九四〜一四二八)に流失した御給教蜜嶋の田地の跡が明応七年(一四九八)に再開発されたように、「嶋」と称されるような微高地を中心として、洪水の被害を受けた田地の復興・再開発も行なわれていた(資7 寶慶寺文書四号)。また、荘園制的収取の対象外の田地である「隠田」や(ハ函四〇)、山・畠であった所を掘りあげて田地化した「堀田」(資5 劒神社文書二四号、ハ函四一六)などとして史料上に現われる田地のほか、農民が売主や寄進者となっている田畠売券や田畠寄進状にみえる零細な田畠の多くは、農民による小規模開発・再開発の成果を示すものであろう。



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