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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    三 村の諸身分
      跡と名職
 戦国期になると農民の名と並んであるいは名のもとで、農民の耕地持分を示す「分」や「跡」の表現がみられるようになる。寛正五年に三方郡日向浦の貞弘名内弥六大夫跡がその子に与えられているように(資8 渡辺六郎右衛門家文書一一号)、分や跡は農民の家産を意味している。分や跡がまとまりのある家産として扱われていることは、没落もしくは逃亡した者の持分はその後もその人の名を冠していることからも推定しうる(資5 山岸長家文書五・一二号)。また分や跡に含まれる地が売却され、当時の言葉でいう「沽却散在」の地となっていても、この分や跡を与えられた者に対して「沽却散在」の地をも含めて支配せよとする例が多いのも、分や跡の一体性をよく示している(資2 松雲公一八号、資8 西福寺文書二二〇号、資9 羽賀寺文書二四号)。永正元年の日向浦の屋敷永代売券には、もし売却者の子孫が途絶えたならば買得者はこの屋敷の「名職」を支配されたいと記されている(資8 渡辺六郎右衛門家文書一七号)。この例から、永代売却地であれ売却者とその跡を継ぐ子孫は売却地を買い戻す権利を留保していたと判断され、このように子孫へと引き継がれていくべき家産を名職と称していたことがわかる。
 名職は名主職をさす場合もあるが(資9 妙楽寺文書九・一〇号)、遠敷郡賀茂荘で前名職とよばれている耕地はいくつかの名田および名田以外の地から構成されており、前家の家産と判断される(資9 前野治良太夫家文書九・一〇号)。福井県内では今日でも大夫・衛門・兵衛などの家名の襲名が行なわれているが、これは名職という家産とともに家名を継承するという中世以来の伝統なのである。
 日本の社会は独自の家制度を基礎としているが、右にみたような家産や家名の成立から考えて、越前・若狭においても戦国期には農民層のなかでもそのような意味での家が成立していたと推定される。永正十一年に南条郡今泉浦刀の中屋常慶は、常慶が開基となった寺を中心に子孫たちが協力すべきことをその置文のなかで説き、「中屋と申しそん(子孫)」を絶やさぬようにと述べている(資6 西野次郎兵衛家文書一七号)。この寺は中屋の家の存続を願って建てられたものであったことが明白である。
 このようにみると惣村は農民の家の形成に対応して発展したものであり、家がいくつか集まって形成される村あるいは小村を基礎とし、それらの家の存続をはかる役割を果たしていたといえよう。それゆえに家格や家筋の固定化にともない村落の閉鎖性もまた強められたのである。



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