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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    三 村の諸身分
      権守と大夫
 村内の身分に関連するものとして権守・大夫などの官位名がみられる。権守は本来は律令官職の五位から六位相当の官職であり、大夫とは五位を示す位であったが、鎌倉期には特に浦において百姓がこれらの官位名を称している。例えば、文永九年(一二七二)の遠敷郡汲部浦において山をもつ百姓すべてが権守もしくは大夫を称している(秦文書一八号)。
 鎌倉期においては権守や大夫は職として領主から補任されていたが、室町期にはそうした領主の補任状はみられなくなる(資6 中村三之丞家文書、資8 秦実家文書)。これは権守や大夫の認定が浦や村のなかで行なわれるようになったことを示す。三方郡常神社の寛正四年・文明二年(一四七〇)・天文二十年(一五五一)の棟札から明らかなように、神社の造営や修理の費用を支出した浦人は、それぞれ烏帽子着(成人)・大夫成・左衛門成(これは天文二十年が初見)・権守成の儀礼を経て、それらの名乗りを認められている(『若狭漁村史料』)。南条郡高佐浦において法師丸という未成人の者が貞和四年(一三四八)に「高佐浦大夫職」に補任され、翌五年には権守に任じられているから(資6 中村三之丞家文書三・四号)、大夫職や権守職はもとは浦における特定の役職であったかと考えられる。それが室町期以降は烏帽子着→大夫→左衛門→権守の順に昇進していく称号となっており、固定的な本百姓・新百姓と違って、年齢とともに位置づけが変化する年齢階梯的な性格をもっていた。
 織豊期の天正三年の常神社棟札になると、大夫成・権守成などがみえなくなる。浦に限らず太閤検地帳の名請人に権守を称するものがみえなくなり、権守は消滅する。しかし、近世太良荘の宮仲間を形成する年寄百姓は中世の孫権守・平権守の子孫であるとしており、権守は由緒ある家筋と考えられていた(「高鳥長大夫家文書」)。中世において権守や大夫が年齢階梯制をとったとしても、それらになりうる人びとは限られていたものと思われる。
写真165 三方郡常神社棟札(寛正四年)

写真165 三方郡常神社棟札(寛正四年)

 なお、中世には百姓が在家生活のままで入道したときにも一定の儀礼が行なわれた。若狭ではこれを出家成と称し、饗料として銭一貫文または米一石を寺に納入している(資8 羽賀寺文書二七号)。越前では有徳の百姓で入道となった者は平泉寺白山三所権現の祭礼に馬張役という山車を勤め、その財力のない者は起請文を納めたという(「朝倉始末記」)。



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