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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    三 村の諸身分
      村のおとな
 若狭においては永享十年に大飯郡青保の村々の代表者が「保内おとな」と自称しており、室町期になると「おとな」がみえ始める(資9 中山寺文書九号)。太良荘でも享徳元年(一四五二)より「おとな」が確認され(『教王護国寺文書』一五〇九号)、寛正五年(一四六四)の年貢減免運動で中心的役割を果たしたのは「老者四人」であった(ハ函三四一)。この「おとな」は荘園制度上の地位でなく惣村の指導者をさすが、若狭の「おとな」は家格をも表わしていた。この「おとな」の後身である「地下のおとな百姓」は、太閤検地時の天正十五年(一五八七)に「ひらの百姓」を召し使うことを禁じられてその権限を削減されたが(資9 清水三郎右衛門家文書四号)、宮座の格としては近世を通じて存続した。近世太良荘では宮仲間を形成する「年寄百姓」とその他の「中百姓」「平百姓」の家格の区別があり(「高鳥長大夫家文書」)、遠敷郡総社明神(小浴神社)の宮座の宮仲間と脇百姓は縁組もしなかったという(「熊野神社文書」)。
 越前では明応七年(一四九八)敦賀郡長沢で「なかさわのおとな」がみえ(永巌寺文書一一号『敦賀市史』史料編二)、永正四年(一五〇七)南条郡抽尾火打村における朝倉氏家臣間の給地紛争に関し「老者二三人」が呼び出されている(資2 松雲公一七号)。なお、中世の正月神事の面影を残す丹生郡清水町大森の睦月神事の歌謡に「おとな・中老・若殿原」がみえる(資15 八章一)。



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