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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    三 村の諸身分
      番頭から惣代へ
 まず村落住人の代表者についてみると、応安四年(一三七一)に吉田郡河北荘の代官の非法を訴えた荘民は「河北庄番頭百姓」と称しており(資2 醍醐寺文書六〇号)、このように番頭が荘民を代表する例はよくみられる。南条郡池大良浦の番頭が戦国期においても手作地の年貢を免除され、住人を年三日間ほど日追人夫として召し使う権限を認められていたように、のちのちまで特権的地位を保っていた場合もあった(資6 中野貞雄家文書一号)。
 しかしすでに南北朝期の貞治五年(一三六六)、遠敷郡名田荘田村において二人の番頭と並んで「惣百姓右馬允」が村を代表して荘園年貢を預かっており(資2 真珠庵文書四〇号)、さらに永享十二年(一四四〇)の大野郡小山荘の佐開郷領家方および木本郷領家方において番頭が存在しても年貢等の指出は「御百姓等注進」とあるように、番頭も進展する惣百姓結合のなかに含みこまれていった(資2 天理図書館保井家古文書五号)。そして越前においては、戦国期末の永禄六年(一五六三)南条郡の「赤萩村之惣代、本番頭之左衛門」とあるのを初見として惣代が村の代表者となる(資6 中村三之丞家文書一三号)。この左衛門は番頭として村を代表しているのではなく、村人によって承認された惣代として村の代表者となっているのである。番頭とは公事負担のためにいくつかの名をまとめた番の差配者として番頭給や番頭袴摺料(番頭への手当料)を荘園領主から認められていた下級荘官であったから、この番頭から惣代への変化は、おおまかにいえば下級荘官の主導する村落から惣百姓が主体となり惣代が代表する村落へと変化したことを示している。



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