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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    二 惣の役割
      中心としての村堂
 太良荘の荘民は荘園領主や守護に対しては「太良庄惣百姓」として現われるが、南北朝期の真村名主権介真良が現地での出挙米(貸付米)借状に「にうのにしのこんのすけ」と記し(ハ函二七)、室町期の公文北坊の跡を継ぐ者が「にうの北之坊」と称し(資9 明通寺文書五九号)、荘内の小野寺も「丹生小野寺」とされているように(ヌ函一八四)、現地の人びとは太良荘の古地名である丹生を用いている。人びとは荘園領主の所領である太良荘への帰属意識とは別に、古くからの地名である丹生を居住の地とするという土着的な帰属意識をもっていた。
 戦国期末の元亀三年(一五七二)正月に今立郡池田荘水海の小村である西村において、「西村惣代」の道善ほか五名の「村衆」が連署して西村の地蔵の神田を小作に出していることが知られる(資6 鵜甘神社原神主家文書二〇号)。このことから、この西村という小村は「惣代」を代表者とし、地蔵堂田を管理する「村衆」によって構成される集落であったと判断される。水海内の他の小村もこのような性格をもっていたものと考えられ、これらの小村は近世の村にはならなかったが、正保三年(一六四六)にも水海村内の小集団として存続し、念仏田の管理を共同で行なっている(同二七号)。このような小村の惣は荘や郷の惣のように対外的に政治的な役割を果たすことは弱く、日常的な生活や信仰で結びついた小集団であった。
写真164 江良浦刀祢申状案(刀根春次郎家文書)

写真164 江良浦刀祢申状案(刀根春次郎家文書)

 集落の中心には水海西村の地蔵堂のような村堂があった。鎌倉期の村堂としては遠敷郡多烏浦と汲部浦が共有した御堂がよく知られているが(秦文書三五号)、戦国期の南条郡今泉浦では寺社の別当に浦人が給恩地を与えていたとあり(資6 西野次郎兵衛家文書一七号)、敦賀郡江良浦では旅僧を村堂の僧として受け入れ、文字を習っていた(資8 刀根春次郎家文書一三号)。村堂の仏神田を惣が管理している例も敦賀郡和久野村などにおいて知られる(資8 西福寺文書一〇八号)。明応六年(一四九七)に丹生郡剣社領の木を村人が「村堂・道橋等」のために所望することを朝倉氏は禁止しているが(資5 劒神社文書一九号)、村人にとって村堂造営は道橋普請と同じような公共事業と考えられていたのであろう。近世において遠敷郡野代村では村内の六讃堂を村の寄合堂として利用していたと伝えるが(妙楽寺文書四七号『小浜市史』社寺文書編)、そうしたことは中世でも十分想定しうるであろう。
 戦国期に荘や郷のもとで村が成長していくと、二つの勢力がこれを掌握しようとした。一つは戦国大名およびその家臣であって、平泉寺賢聖院が護法寺村・片瀬村・井口村について公文職と人足を支配し、誰の被官であってもその持分を闕所(没収地)となしうる検断権をもっていることや(資7 白山神社文書一号)、丹生郡織田荘において朝倉氏一族が公事代(公事負担の見返り地)を赤井谷村という村に認めていることは(資5 山岸長家文書六号)、村を支配の単位とする意図を示すものである。村を掌握しようとしたもう一つの勢力は真宗を広めようとする本願寺であり、村堂を中心とする村の信仰をそのまま本願寺の教団に組み込むことができるならば、計り知れない力を蓄えることができるであろう(四章五節参照)。



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