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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    二 惣の役割
      地下のならい
 惣は荘・郷・村ないし小村においてそれぞれ形成されていた。これを河口荘を例としていうならば、河口荘全体の惣荘があり、そのもとに河口荘を形成する一〇の郷ごとに郷を単位とする惣があり、その郷ごとの内部にまた村ないし小村を単位とする惣があった。こうして惣は重層的に構成されていた。おそらく村ないし小村の代表者が郷の惣を構成し、郷の代表者が惣荘を構成したものと思われる。荘園の制度的な単位である荘や郷の惣と、そうした制度上の位置づけをもたない場合の村や小村の惣との間にはその性格や果たすべき役割の違いがあった。
 荘や郷の惣はその性格からして、荘園領主に対する年貢減免や代官排斥あるいは守護に対する夫役の軽減要求などの運動を担った(本章四節参照)。また寛正二年(一四六一)より太良荘民が隣接する今富荘民と埋樋をめぐって争い(ハ函三二六・三六四)、河口荘十郷荘民が給人とともに十郷用水について隣郷と合戦になる一歩手前まで争ったように(資2 春日大社文書一〇号)、惣荘は用水や山林の問題でも中心となった。
 耕地・用水・山林などに関する取決めや慣行も確定されていたと思われるが、畿内などでみられるような地下で成文化された惣掟は今のところ見出せない。長禄三年(一四五九)太良荘では荘内の田地の境目紛争は、たとえ長年月を経ようとも境目に打ってある杭によって決めるのが「ならひ」であるとして「口入人」(仲裁者)によって解決されており(ハ函三一二)、荘内紛争の慣行的掟の存在を知ることができる。
 しかし、室町・戦国期において越前・若狭の荘や郷はほぼ朝倉氏や武田氏の家臣の支配下に置かれていたから、惣は一定度の自立性をもちながらも、これらの武士の支配下に置かれていた。丹生郡糸生郷雨谷における天文十六年(一五四七)の売却地をめぐる村人間の紛争は、この地を支配した朝倉教景によって判決が加えられている(資5 野村志津雄家文書四号)。また十郷用水についての紛争や樋普請についても朝倉氏が下知を加えている(資4 大連三郎左衛門家文書一号)。



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