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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    一 村の性格
      村境
図38 「耳西郷惣田数銭帳」にみえる村と浦

図38 「耳西郷惣田数銭帳」にみえる村と浦

 村が年貢収納の単位となっている例として先に挙げた耳西郷内の村々では村の田地が記されているが、この村の田地とはあらかじめ定められた村境内の田地という意味ではなく、この場合も村人のもつ田地という意味である。耳西郷内の郷市村・早瀬浦・日向浦・気山村は名田を中心に田地が構成されているが、松原村・久々子村・別所村には名田が含まれていない。この違いはおそらく郷市村など名田をもつ村人の村がまず成立し、ついで松原村などが成立したためであろう(図38)。村や浦が年貢収納の単位となっている場合には村人のもつ田地が村の田地として固定化されたものと思われ、永享八年(一四三六)の早瀬浦と久々子浦の紛争は係争地が早瀬浦の国清名に属することが理由とされて早瀬浦が勝訴している(資8 上野山九十九家文書一号)。永禄七年(一五六四)に南条郡河野浦が隣浦の池大良浦の山を取り込もうとしたときに用いた論法も、この山は河野浦の太郎兵衛のもつ立石名内にあるというものであった(資6 中野貞雄家文書四号)。ただしこの場合河野浦の主張は朝倉氏によって退けられており、戦国期には村境が村人のもつ耕地とは別に、空間的に一定の境界を設定するという原則にもとづいて定められるようになった。
 一般的にいうならば、荘や郷は耕地を中心とする空間的領域であるのに対し、村および小村はまず何よりも集落に住む人びとの結合を中心として成立している。したがって単純化すると、荘や郷を単位に形成される惣は名主や作人などの構成員の耕地に対するかかわり方が反映され、荘園制の枠組みが維持されやすくなるのに対し、小村においては荘園の枠組みから比較的自由な形の惣が形成されるであろう。そして村はその中間に位置づけられよう。



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