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第三章 守護支配の展開
   第五節 惣村の展開
    一 村の性格
      小村の形成
 鎌倉期末より荘郷の人びとは自ら「惣中」「惣御百姓」などと称して結束を強め、自治的な団体としての性格をもつものも現われた。いわゆる惣村がこれである。畿内やその近辺では惣村は、意志決定のための寄合(集会)を開き村掟を定めた。また惣村は村内について地下検断権(警察および裁判の権限)を有し、惣村独自の財政を確保するため惣有田などをもっていたとされる。越前や若狭においてこうした典型的な惣村を見出すのは困難であるが、多くの村落がそうした傾向を強めていたことは確かである。
 すでに鎌倉期より荘や郷のうちに村が形成され、それが荘園領主によって年貢・公事の負担単位として掌握されていることが、興福寺領坂井郡坪江下郷内の牧村・北方・小山・乙部・西谷の例や春日社領大野郡小山荘内飯雨村の例から知られる(「坪江下郷年貢天役等事」、資2天理図書館 保井家古文書五号)。さらに戦国期になると、三方郡耳西郷が郷市村・松原村などの村で構成され、郷の田地もこれらの村に配分されているように、村が一般化してくる(資8 宇波西神社文書二号)。
写真163 遠敷郡太良荘鳴滝

写真163 遠敷郡太良荘鳴滝

 注目すべきことは、室町期より荘・郷のなかに年貢・公事負担の単位としては認められていないが、人びとの集落であることが確実な小村が形成されてくることである。例えば東寺領遠敷郡太良荘では正長二年(一四二九)の検注帳の名請人に「ナルタキ」「太郎」「谷」という肩書が付されているが(と函九二、ア函一七九)、これらはのちに「たら庄村々惣中」と称された惣中を構成する村名であった(資9 高鳥甚兵衛家文書一九号)。また今立郡池田荘水海のうちには応永三十二年(一四二五)以後、地蔵堂村・西村・上の村・井口村・道(堂)村・上宮地村という小村が形成されていた(資6 鵜甘神社原神主家文書)。さらに坂井郡河口荘の領主である興福寺大乗院の尋尊の日記には河口荘の「郷々内村名」が記されている(『雑事記』文明二年七月十四日条)。一例として関郷の場合についてみると、嶋田村(島田村、のち上関村の枝村)、かうらい田(河原井手村)、中村・小路村・つるまる村(この三か村は下関村の枝村ないし小字名)、千行村が郷内の小村として挙げられている(括弧内は近世の状態)。大和の荘園領主である尋尊が年貢収納の単位でもないこれらの小村に関心を寄せたのは次のような事情があった。文明十六年(一四八四)十一月に朝倉氏と甲斐氏の合戦の舞台となった河口荘の被害の状況は「本庄郷ハハツワカノ村ノ東辺マテ」ことごとく竹木を切り払うとあるように、小村の名称を挙げて詳しく報告されている(同 同年十一月七日条)。このころになると現地では小村の名称を用いることが一般化したため、小村名を知らなければ現地の状況を掌握できなくなっていたのである。
 右の本庄郷の小村の史料から、防風・燃料・用材のための竹木に囲まれた小集落を思い浮かべることができよう。この小村とは集落の名称であって、近世の村のような耕地を含む村境をもっていない。天文八年(一五三九)の平泉寺賢聖院領目録や天正五年(一五七七)の柴田勝家の検地の結果を示す織田寺社領坪付帳において、村ごとに記されている田地とはその村の村境内の田地という意味ではなく、その村人が保有する田地をさしている(資7白山神社文書二号、資5 北野七左衛門家文書七号)。ただし長禄二年(一四五八)の坂井郡称念寺領目録に「同(船寄郷)中村畠八段小」「同包久村畠壱丁七段」「福島村畠壱丁屋敷」とあるように(資4 称念寺文書三号)、集落に付属する畠は村の畠と考えられていた。



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