目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    五 室町期の徳政一揆
      享徳の徳政一揆
 享徳元年(一四五二)八月に京都で徳政を求める動きがあり、幕府はこれを禁止している。若狭においては翌閏八月に「土民百姓等」が「土一揆」を構え、あるいは一色氏の「牢人」と結んで蜂起する動きがあった(ツ函一三二)。このときの守護武田氏の対応は素早く、閏八月二十六日には太良荘民の和泉大夫父子が牢人を引き入れて徳政を行なったとして小浜で処刑されている(ハ函三九〇・二五四)。
 こうして徳政一揆は鎮圧されたが、享徳三年十月に幕府が永代売却地を除く徳政令を発すると、十二月に牢人たちが南から若狭に攻め入ろうとしている(資2 内閣 朽木家古文書八号)。これに呼応する若狭国内の動きは知られないが、武田氏は国内の不満を考慮してか徳政を認めており、翌康正元年(一四五五)正月に太良荘の馬大夫が徳政を理由に勧心名を取り返そうとしている(タ函一三二)。この徳政ののちの長禄三年(一四五九)八月に、太良荘民は永代売却地をも対象とする徳政でなければ永代売却地を取り返すことは不法であると主張しており(ハ函三一二)、おそらくこの享徳の徳政令は永代売却地を徳政の対象としない幕府徳政令に準拠して行なわれたものと推定される。「田舎の大法」にもとづく嘉吉の徳政から幕府・守護の統制する徳政へと転換したのは、武田氏の守護領国支配の進展に対応するものであろう。戦国期末まで武田氏は何度か徳政令を発するが、永代売却地が徳政の対象となった例はない。
 なお室町期の若狭の徳政として、文正元年(一四六六)十月ごろと推定される文書に「又徳政之儀ニより候て、国ハ更々しつまりゑす候」とみえているが、詳細は明らかでない(ハ函三九九)。



目次へ  前ページへ  次ページへ