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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    五 室町期の徳政一揆
      嘉吉の徳政一揆
写真162 太良荘百姓等申状(ツ函二七七、部分)

写真162 太良荘百姓等申状(ツ函二七七、部分)

 嘉吉元年八月に京都で大規模な徳政一揆がおこると、若狭にも波及して十月には徳政一揆が蜂起した。前年の永享十二年(一四四〇)五月には守護が一色氏から武田氏に替わっており、新守護武田氏のもとで所職を失った人びとの反発と一般的な徳政要求が結びつき、若狭でも大規模な「土一揆」の蜂起となり、国内各地で武田氏および支援軍と戦った。『東宝記』奥書によれば三河国と若狭国では守護代が一揆に追い出されたという。
 この徳政一揆は若狭において、「つちいつき(土一揆)置定候」とあるように独自の徳政令を定めていた。その徳政令の全体は未詳であるが、幕府の発した徳政令が寺社の神物や祠堂銭(寺社からの一種の貸付金)を徳政の対象外と定めていたのに対し、若狭の徳政においては「なにと様なる借物」「神物・仏物ときらわず」すべて「徳政ニやぶり候」と債務の破棄の基準が定められており、これは「田舎の大法」であるとされている(ヌ函二九三、ツ函二七七)。すなわち若狭における徳政は幕府の統制の枠を超えていたのである。そして太良荘の荘民が嘉吉二年・同三年に右の徳政一揆の定めた法を主張して、東寺の造営奉加借米を拒否していることを考えると、武田氏もこの徳政一揆の定めた徳政令を追認せざるをえなかったものと判断される。文安元年(一四四四)七月に武田氏が国内寺社本所領の預所職の知行を幕府に願って許可されたというのは(『康富記』同年七月十九日条)、こうした「土一揆」を封じるためでもあったと考えられる。



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