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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    五 室町期の徳政一揆
      正長の徳政一揆
 最初の徳政一揆が京都でおこった正長元年に若狭でも徳政を主張する「土一揆」が蜂起した。残念なことにこの一揆については、太良荘本所方から「土一揆」が二度にわたり九石の「兵糧米」を取ったことが知られるだけである(リ函一一五・一一六)。しかしこの徳政一揆は太良荘にはかなりの影響を与えた。この一五年前に代官職を罷免され、もっていた名田を没収されていた朝賢は徳政一揆がおこると公文職と名田の回復を願って荘園領主に訴え、認められた(ツ函一一七、オ函二六三)。他方で荘民の右近大夫と右馬大夫はそれぞれ泉大夫のもつ真村名と道性のもつ勧心名の返却を求めた(ア函一七九)。これらはまさに荘園における徳政の実行に他ならない。しかし荘民や当時の代官乾嘉らは朝賢を排斥し、泉大夫と道性は名田の返却を拒んで争ったため、「地下さくらん(錯乱)」と称されるような状態となった(し函二〇〇)。この錯乱は翌年の四月ごろまで続いたが、朝賢は代官乾嘉に不満をもつ荘民を味方に引き入れて乾嘉の罷免に成功し、おそらく右近大夫らと泉大夫らとの間にも名田引渡しの妥協が成立して収まったと考えられる。
 荘園領主東寺はこの機会を利用して検注を実施し、右近大夫らの名田回復を認め、また地頭方については南北朝期貞治二年(一三六三)以前の支配に戻した(と函九二、ア函一七九)。このように荘民・代官・荘園領主はそれぞれの由緒によって徳政を主張し、その結果行なわれた検注はこののちの太良荘の枠組みを規定することとなった。



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