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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    五 室町期の徳政一揆
      本主の権利
 土地の質入れには相手に土地を引き渡す入質があるが、入質には相手方に引き渡した土地収益得分をもって利息分に充て、年期明けのとき借銭分を返済する場合が多く、これを本銭返と称した。延慶元年(一三〇八)に敦賀郡常宮八講田四段を一五貫文で七年間売却したときの契約では、毎年六石のこの地の得分をもって利息分に充て、七年後に借りた銭一五貫文を返済することで売却地を取り戻すこととされている(資8 永建寺文書一号)。いずれもこれらの場合、農民が土地を売るとしているのは初めから永代に売ることではなく、取戻しを前提とした質入れを意味した。
 しかし現実には、右の常宮八講田について売主は本銭を支払うことができずこの地を手放しているように、永代売りとなる場合が少なくなかった。そのような永代売りの場合であっても、本主(もとの持ち主)の買戻しの権利が潜在的に、また第三者に対しては優先的に存在したと考えられる。売券に必ず添えられる売主の「子々孫々の違乱煩い」を停止するという文言のうちに、こうした本主の権利が暗示されている。永正元年(一五〇四)三方郡日向浦住人が永代売却した屋敷の売券に、もし我々の子孫が断絶したならば買主がこの地の「名職」を支配してよいとわざわざ書かれているのは(資8 渡辺六郎右衛門家文書一七号)、永代売却したのちも子孫に買戻権があることを想定していると解される。また文明元年(一四六九)に遠敷郡明通寺の仁王坊祐尊が一五貫文で永代に売却した大清水二段の田地が、同じ売価で転売されたのち、明応四年(一四九五)に祐尊の跡を継ぐ実祐によって「買返」されていることも(資9 明通寺文書六八・七六・九五・九八号)、本主の権利を示す例となろう。
 このように農民たちは土地は取戻しを前提として売るという観念をもっていたが、現実には最終的に永代売却せざるをえない場合が多かった。しかしその場合にも本主の権利が潜在的に存続していた。室町期の徳政一揆はこうした状況に対応して生まれてきたのであり、それゆえ農民を含めた広範な人びとを巻き込んだのである。



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