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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     四 荘民の年貢減免運動
      武家代官の排斥
 荘民たちは武家代官を罷免し、荘園領主の直務(直接支配)を要求することもあった。長禄三年(一四五九)十月に大野郡井野部郷の名主たちは、長禄合戦に巻き込まれた在地では軍勢が乱入して「おとなしき御百姓二人」が討たれたことを報じ、この原因は代官が武家であったためであるから現在の武士代官の梁田氏を罷免して「直務に御知行」ありたいと訴えている(資2 醍醐寺文書九九号)。また、長禄合戦のなかで守護代甲斐氏方の武士代官が敗退して「あき郷」となった河口荘の郷々について荘民たちが興福寺の直務を願っているのも(『雑事記』長禄二年九月十六日条)、さらに寛正二年に河口荘の田楽段銭使に朝倉孝景が任じられるならば「庄家の大儀」になるとして河口荘民がこれに反対しているのも、同様の意図にもとづくものである(同 同年十一月一日条)。武士代官が忌避されるのは戦乱に巻き込まれるという理由のほかに、荘内の土豪を圧迫したり、有力農民を被官化(家来とすること)するなど、村落の秩序を変えていく危険性が大きかったからである。
 このように、逃散をもともなって繰り返される年貢減免や代官排斥などの要求にみられるような荘民の集団的抵抗運動の強化により、荘園領主は荘園内部を次第に掌握できなくなり、荘民から新たな剰余を吸収することも不可能となっていった。



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