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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     四 荘民の年貢減免運動
      逃散
 荘園領主に対する荘民の強い意思表示ないしは抵抗形態が逃散であった。これは一般的には荘民が集団で居住地を離れて山林などに入り込むことであるが、家の周りに笹や柴を引き回して篭居する場合もあった。戦国期に朝倉光玖が府中より使者を派遣して今立郡水落町の篠を取るようにと一乗谷奉行に命じているのは(資5 瓜生守邦家文書一一号)、水落町人の逃散を示すものとも解釈されている。
写真160 円覚坊経尊等論文(西福寺文書)

写真160 円覚坊経尊等論文(西福寺文書)

 すでに暦応四年(一三四一)三月に遠敷郡汲部・多烏両浦の百姓たちは所務代官の入部を拒否して逃散しており(秦文書八四号)、太良荘においても応永十四年二月に荘民たちは山伏代官の禅慶と朝禅を訴えて逃散し、代官が改易されなければ還住しないとしている(ツ函一九一)。また応永二十四年には敦賀郡木崎郷民が代官や守護役などのことで西福寺と争って逃散しており(資8 西福寺文書六〇号)、さらに文明四年(一四七二)十一月に丹生郡志津荘では荘園領主賀茂御祖社の課した検注銭に反対する荘民の逃散がおこっている(『親長卿記』同年十一月九日条)。このようにさまざまな理由から逃散がなされているが、年貢減免を要求しても逃散がおこった。応永三年末に太良荘民は起請文を捧げて損免を願ったのに無視されたことや、先の代官の来納分(年貢の先取分)についての東寺の処理などを不満として逃散している(ツ函八八)。荘民の提出する起請文に関しては、鎌倉期末の三方郡御賀尾浦人が地頭に対して「起請文を書進らすの上は、子細に及ばず叙用せらる所なり」と述べているように、荘民が起請文により誓約したことは領主といえどもたやすく無視できないと考えられていたのである(資8 大音正和家文書三三号)。太良荘では起請文が無視されたこともあり、荘民は逃散に踏み切ったのであろう。逃散は年末から翌年の二月ないし三月にかけて行なわれており、農繁期を避けながらも、もし要求が容れられないときには田植えの準備に入らないと主張しうる時期が選ばれている。



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