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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     四 荘民の年貢減免運動
      集団としての損免要求
 室町期の損免要求の第二の特徴は、永享五年(一四三三)九月に遠敷郡松永荘の荘民たちが干損による減免を求めて代官のもとに「列参」(大勢で請願に押しかけること)しているように(『看聞日記』同年九月三日条)、要求行動が集団的となり、激しくなることである。後述するように、太良荘の荘民が水害による捨田の年貢の減免などを要求して初めての逃散を行なったのは応永三年末のことであった(ツ函八八)。損免要求はあくまで「御百姓」の集団の要求なのであって、南北朝期までみられたように損毛を個々の農民ごとに注進して免除を願うことは行なわれなくなり、したがって実際に耕地ごとの検見(損免査定)も次第にみられなくなるのである。太良荘の例では、損免額は半済方や若狭の国の平均を考慮して決められ、荘全体の損免額を領家方三分の二、地頭方三分の一に配分することが多い(タ函三六、ナ函二二)。
 実際の検見にもとづかないのであるから、損免額はいきおい荘園領主と荘民の力関係によって政治的に決められる。寛正六年九月より太良荘荘民は五回にわたって減免運動を行ない、損免額を初めの一〇石から三〇石まで増加させている(タ函一七四)。この前年の寛正五年に荘民は二五石の減免を獲得しているが、その減免額を荘内で配分するとき八石の「入足」(必要経費)が差し引かれている(ハ函三四一)。この「入足」は減免運動のための資金に相当するものと考えられる。



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