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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     三 半済と守護役
      守護・国人の荘園支配強化
 しかし十五世紀後半になると守護・国人の荘園支配が強化されてくる。太良荘では半済給人山県氏を通じて守護の陣夫や段銭が課せられるようになり(オ函一五九、し函一四二)、寛正五年に荘民が守護使不入を理由に馬夫を逃れようとすると、半済給人は守護使不入などというのは「いまめかしく候」(今更わざとらしいことだ)と述べてこれを無視しており(ハ函三三八)、東寺や荘民の守護使不入の努力は水泡に帰している。
 河口荘細呂宜下郷の先代官堀江民部は一部の郷民を誘い寛正元年閏九月より郷に入部しようとして合戦に及んでいたが、文正元年(一四六六)八月に実力で郷に入部し、以後この地を支配した(『私要鈔』寛正元年閏九月二十八日・文正元年八月四日条、『雑事記』文正元年六月十九日条)。この堀江民部はもとは幕府と親しい公家日野家の被官であったが、このころは守護斯波義廉の被官となっていた(『私要鈔』文正二年三月四日条)。堀江はこの守護被官化を背景に、河口荘で影響力を強めつつあった朝倉孝景とも結び、実力で支配を奪回したのであろう。
 このような状況のなかで荘民に対する守護の捉え方にも変化が生じてきた。康正元年(一四五五)九月に守護使不入を理由に陣夫役を逃れようとする太良荘民に対して半済給人の山県氏は、この陣夫役は「私ならず、公方様(将軍)の御事」であるから、たとえ荘園領主の代官が免除を主張しているとしても、「御百姓としては緩怠あるまじき由」を命じたという(ハ函三九五)。この主張は、荘民はもはや単に一つの私的な荘園の民(荘民)であるのではなくして、将軍や守護の支配する国に属する民(国の御百姓)でもあるという捉え方に立っている。荘民たちは荘園の民であるという観念を脱することはなかったが、もはや以前のような荘園領主への帰属意識は薄れ、「惣」を拠点とした自立的な「百姓」としての集団意識を強めていた。それに対応して、守護も長禄元年四月には太良荘において「本所御領」に課す要銭とは別に、「御百姓中器用」を対象とした要銭を課している(ハ函三七四)。荘民を「国の御百姓」として掌握すること、これが戦国大名の目標とするところであった。



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