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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     三 半済と守護役
      守護使不入
 荘園領主が課役免除を実現するためには、何よりも守護使の入部を断つことが重要であった。そこで荘園領主は守護使不入の確認あるいは獲得を求める。この不入権を得れば幕府の課す段銭のみならず、守護が独自に課す夫役・段銭なども免除されるのである。本来、守護使不入権とは守護使が荘内に入部して検断などを行なうことを禁止することであったが、室町期のそれは守護の課す諸役徴収を免れることを意味するようになった。
写真158 室町幕府管領細川持之施行状(せ函武七二)

写真158 室町幕府管領細川持之施行状(せ函武七二)

 東寺は太良荘の守護使不入を応永十四年より要求し始めるが、それが認められたのは義教が将軍であった永享六年であった(ハ函一〇五、ツ函一〇〇、せ函武七二)。この二年後の地頭方算用状から、それまで守護が恒常的に徴収していた節供料・椀飯采女料・修理替が免除されているから(リ函一四二・一四四・一四五)、将軍義教の権威を配慮してか守護使不入が守られていた。
 永享十二年一色氏に替わって守護となった武田氏も基本的にはこの不入を踏襲したが、段銭徴符は煩雑に荘に配布した。そこで文安四年九月と宝徳二年(一四五〇)三月に守護使不入の将軍家御教書が出されている(マ函八五、東寺文書一二)。しかし享徳年間(一四五二〜五四)の徳政一揆の騒動ののちは、後述するように様相が変わってくる。
 以上、主として太良荘の事例によらざるをえないため、これを一般化することには慎重でなければならないが、守護一色氏は半済については譲らなかったが、室町中期には守護は荘園に対する課役徴収については守護使不入をある程度守り、全体として守護と荘園領主は幕府の支配のもとで相互の権限を妥協的に承認していたといえよう。



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