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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     四 荘民の年貢減免運動
      在地の自立化
写真159 太良荘山王宮(日技神社、小浜市太良庄)

写真159 太良荘山王宮(日技神社、小浜市太良庄)

 室町期の荘園において代官支配が一般化し、また守護の支配力が強まると、荘園領主と荘民の関係にも変化が生じてきた。若狭においては、応永十年(一四〇三)に三方郡耳西郷と興道寺の用水紛争について守護代の小笠原長春が裁決を下しており(資2 天龍寺文書二四号)、応永十四年には三方郡早瀬浦と久々子浦の網場相論を守護代三方範忠が成敗しているように(資8 上野山九十九家文書一号)、村落間紛争の裁判権を守護が掌握しつつあった。また荘園内部の問題についても、寛正二年(一四六一)の耳西郷日向浦の名田の充行いは二人の荘主(代官)の命を受けた沙汰人が行なっているように(資8 渡辺六郎右衛門家文書九号)、代官が処理するようになった。さらに太良荘では嘉吉三年(一四四三)に代官の指示を受けながらではあるが、荘内の山王社の修復を怠った宜の権限を荘民が買得し、修復を果たしている(ハ函三八四)。これらはいずれも本来は荘園領主の関与すべきことであったが、室町期になると荘園領主の手を離れ、守護・代官・荘民にゆだねられる傾向にあった。また太良荘の例が示すように、南北朝期までみられた荘園領主のもとでの名田をめぐる三問三答の訴陳状の応酬を経たうえでの裁決も、室町期には行なわれなくなった。これは荘園領主が荘民個々の権利の保護に無関心となり、同時に荘民も個人としての権利の保護を荘園領主に求めなくなったことを意味する。さらにこれを一般化して、荘園領主は荘民内部のことについて無関心となり、荘園領主の法や規範が荘民を捉えなくなったと言ってもよいであろう。三方郡御賀尾浦(三方町神子)の室町期の文書の大半が代官の年貢請取状であるように、荘園領主と現地荘園を結ぶものが一片の年貢授受文書であるというありかたは珍しくなかった。こうして現地荘園は荘園領主の細部にわたる支配から離れつつあり、代わって荘務についての「国のさほう」(その国独自のやり方)や徳政における「田舎の大法」が主張されるようになるのである(モ函一五四、ツ函二七七)。



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