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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
     三 半済と守護役
      半済停止要求
 守護勢力の排除を願う荘園領主の要求の第一に挙げられるのが半済の停止であった。まず越前についてみると、応永二年(一三九五)十一月に醍醐寺領大野郡牛原荘において、長禄二年(一四五八)青蓮院領敦賀郡莇野保において半済が停止されている(資2 醍醐寺文書七五・九五号)。牛原荘の場合は、のちの幕府政治に大きな影響力をもつことになる満済が将軍義満から三宝院門跡、ついで醍醐寺座主に任じられたときにあたる。また莇野保の場合は、いわゆる長禄合戦によって半済給人が没落したという事情があったものと推定される。半済の停止はいずれもこうした特別の機会を荘園領主側が有効に利用することによって実現するものであり、逆にいえばいったん半済が定着するとその停止は一般的には実現しがたいものであった。
写真157 遠敷郡国富荘

写真157 遠敷郡国富荘

 若狭については応永十四年十二月の太良荘代官の申状に、このころ国中の多くの半済地が停止されたとあるので(し函二八五)、ある程度半済が停止されたようにもみえる。しかし実際に半済が停止された例としては、永享三年(一四三一)正月八日の伏見宮家領松永荘(『看聞日記』同日条・同年六月五日条)、永享九年十月の遠敷郡国富荘(『壬生家文書』五四・五九号)が知られるくらいである。
 このうち国富荘は応永十六年より守護代三方範忠が領家職半済所務を行ない、領家に二七貫文を納入する契約がなされていたが(同七二七号)、違乱を重ねるため半済停止が求められていたものである(同三三二号)。ところが右の永享九年の半済停止が命じられると、三方氏の小守護代松山乗栄はこれを認めないとして荘に乱入し、女や童を召し取って荘民に年貢などの納入を迫り、荘民が逃散すると荘民の家を検封して資財を奪うという行動にでている(同三三七号)。この結果は明らかでないが、次の守護の武田氏の代には半済が行なわれているから(同三四二号)、もし停止されたとしてもそれは短期間のことであった。
 半済停止が困難であったことは太良荘の事例が参考となろう。荘園領主東寺は半済停止を繰り返し幕府に要求し、幕府も応安三年(一三七〇)から応永三十三年までいずれも将軍家御教書によって繰り返し半済停止を守護一色氏に命じているが(せ函武四六、ノ函一八三)、一色氏はこれをすべて無視している。武田氏の代になるともはやそうした御教書も出されず、寛正元年(一四六〇)七月に半済についての武田氏の釈明が求められているに過ぎない(ア函二三九)。一色氏時代の太良荘の半済方代官は年々替わるとされているが(ツ函一八)、応永十四年には南禅寺瑞雲庵が、翌十五年相国寺大徳院が代官として知られ、また半済給人としては永享元年以後吉原殿がみえている(し函二〇〇、タ函七〇、資9 長英寺文書三号)。これら一色氏時代の代官・給人はいずれも現地に土着性をもたなかったが、武田氏時代になると給人・代官ともにこの地に土着した。したがって半済停止の可能性はほとんどなくなってしまった。



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