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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    二 請負代官支配の展開
      代官の補任権
 河口荘の代官たちが低額の年貢しか納入しなかったことに対し、興福寺は応永二十一年に守護代甲斐祐徳に訴え、年貢を加増させるとともに今後は未進などの生じないよう代官に命令を加えるという甲斐祐徳の請文を得ている(「寺門事条々聞書」)。これは守護代の力によって年貢請負代官から年貢を確保しうる保証を興福寺が得たことを意味するが、逆の面からみると河口荘の請負代官が守護代甲斐の統制下にあることを興福寺も認めることになった。したがって、こののちの文安四年(一四四七)に興福寺は大口郷政所阿波賀氏を罷免することはできたが、後任者には守護代の意向をいれて朝倉氏を任じなければならなかったように(『私要鈔』文安四年十月二日条、『雑事記』康正三年四月二十九日条)、興福寺による自由な代官任命権は制約されていた。
 さらに幕府も代官補任に介入した。河口荘兵庫郷政所職代官小泉重弘跡や長禄合戦の結果明所となった堀江石見守跡の河口荘諸代官職は幕府が没収し、将軍近習の熊谷氏や幕府倉奉行籾井信久に与えており(『雑事記』長禄二年五月二十九日・六月九日条)、これらの代官職の補任権は幕府が握っている。さらに坪江郷代官の禅住房承祐は坪江郷を将軍から「永領」として安堵されており(『私要鈔』宝徳二年九月十八日条)、この由緒を理由に幕府は寛正二年に代官禅住房承棟を改易しようとする興福寺の主張を退け、翌三年承棟は代官職を幕府から安堵されている(『雑事記』寛正二年十二月二十七日条など)。また、代官の地位を朝廷から所領のように安堵されていた例が遠敷郡松永荘について知られる(『看聞日記』紙背文書)。代官に対抗する荘園領主の最後の拠りどころは任免権であったが、それも守護・守護代・将軍・朝廷の意向や、それと結ぶ代官によって制約されていたのである。



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