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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    二 請負代官支配の展開
      代官職の契約化
 実際の代官はこれらの諸類型の組み合わせからなっているが、おおまかにいえば荘園領主の身内・配下の代官は所務代官、守護家臣や国人の代官は年貢請負代官が多いように思われる。前者は任免が比較的容易で統制しやすいが、守護などとの交渉力が弱かった。逆に後者は守護使などの乱入を防ぐには効果があったが、未進や押領の危険性が大きかった。金融力のある禅僧は銭を調達するのには便利であったが、正長元年(一四二八)の徳政一揆のとき太良荘代官乾嘉は「正躰なく候」とされ(し函二〇〇)、坪江郷代官承棟が寛正六年(一四六五)に請負年貢が集まらないので途中で代官職を放棄したように(『雑事記』同年四月二十七日条)、大事なときに頼りにならなかった。総じて所務代官は現地に下って守護などと交渉するのに積極的でなく、南北朝期に太良荘で殺害された二人の預所のような「一所懸命」の姿はみられない。それは「先祖相伝」でなく「契約」にもとづく請負代官としての性格をよく示している。
 年貢請負代官が年貢を請け負うとき、収納高のどのくらいを請け負ったのかについてみると、応永二十一年(一四一四)に守護代甲斐祐徳が一〇〇貫文で請け負った河口荘溝江郷は長禄二年には一二八貫文余の年貢があるとされており(『雑事記』長禄三年四月二十三日条、「寺門事条々聞書」)、寛正六年(一四六五)に敦賀郡莇野保七二貫余(代官得分を含む)の所務代官であった承慶は翌七年これを六八貫文で請け切っている(資2 醍醐寺文書一三二・一三六号)。これらの例からすると請負額は収納額と比してひどく低いものではない。しかしこれは表面的な契約上のことであって実際には余得分があり、また応永二十一年の河口荘代官が契約年貢のおそらく半分も納めていなかったことを考えると、年貢請負はある程度の得分を代官にもたらしたものということができる。



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