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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    一 室町期の荘園
      複雑な支配単位
 南北朝動乱期のなかで荘園を舞台にそれぞれの権限を獲得した諸集団は、室町期にはその権限を既得権として確保し、さらにその拡大を意図した。すでにみたように、南北朝期には遠敷郡名田荘における徳禅寺のように一円化の努力がある程度功を奏する場合があった(二章四節二参照)。しかし他方では、守護・地頭・土豪たちによる支配権の確保が荘園支配を複雑なものとしていることも見逃してはならない。
 例えば、大和の春日社が永享十二年(一四四〇)まで大野郡小山荘において支配しえていたのは表38のAとBの地であった。これらの地は小山荘の開発領主藤原成通の子孫が伝領し、興福寺浄名院を通じて春日社領となったところである。それに対し、Cは鎌倉末期に地頭伊自良氏の請負地となっていた所領、Dは同じころ大覚寺系(のちの南朝方)の北畠師房・親房などに与えられていた郷であり、内乱期に地頭の押領や南朝方所領の没収などによって春日社の支配の及ばなかったところと考えられる。

表38 永享12年の大野郡小山荘の状態

表38 永享12年の大野郡小山荘の状態
 遠敷郡太良荘では貞治六年(一三六七)より従来の領家方・地頭方に加えて預所方が分離し、これらの三方はそれぞれ本所分と半済分に分けられたから、荘はおのおの自立的な三種類六区分の単位から構成されていた。本所分は東寺の支配下に置かれたが、領家方と地頭方では東寺内の年貢受益者が異なるため別の荘園のようにみなされ、それぞれ収納に用いる桝も違っていた(領家方桝一石は地頭方では一・〇六石ないし一・〇七石)。ただし、もとは領家方・地頭方において別々に行なわれていた荘園支配のための評定(会議)は、応永十四年(一四〇七)ごろには恒常的に合同で行なわれるようになっている(タ函六九)。



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