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第三章 守護支配の展開
   第四節 荘園の変質と一揆
    一 室町期の荘園
      坪江郷の別名
 荘園成立期において在庁官人や土豪たちは、特に国府の近辺においては自らの所領を保や別名として郷から自立した所領単位とすることができた。しかし、国府から離れた郷である坂井郡坪江郷においては別名が郷から自立しえず、郷内の別名(別納)として位置づけられた。鎌倉後期の「坪江上郷条々」において「上郷分」と区別されている円方(公文名)・東西後山分などが別納であり(「内閣文庫所蔵文書」)、これらの別納は「上郷分」を支配する政所の支配が及ばず、別納をもつ者が直接に荘園領主に年貢などを納めていた。南北朝期以後にはこうした別納が増加しつつあり、応安六年(一三七三)には新たに仁王丸・福久・法師丸・武里・米泉(田所名)・貞依名の地が別納となっている(同前)。この坪江郷は河口荘と同じく興福寺の支配する荘園であったが、この両荘に利害をもつ興福寺内の人びととして、代官の人事権など荘の惣支配権たる検校職をもつ大乗院門跡、荘の支配にあたる給主、本来の年貢受益者である講衆という三者を主なものとして挙げうる。この三者は守護の押領などにさいし対外的には一致した行動をとることが多いものの、内部では荘の支配や得分をめぐって絶えず争っていたのである。右に述べたように別納が増加するのは、門跡や給主が個別に収納を確保しようとし、それが政所から自立しようとする土豪や有力名主の行動と一致したからである。



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