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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      和田氏
写真155 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分)

写真155 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分)

 和田氏は、大飯郡の長講堂領和田荘を本貫とする。この地に勢力をもった和田氏は、荘の成立とともに下司として在地を支配した。和田実員は鎌倉幕府御家人となっている(ホ函四)。鎌倉末期には和田平井七郎実家や下司である和田重員が知られ、実家は若狭一宮十三代宜光景の妹を、また重員は光景の娘をそれぞれ妻とし、重員はさらに娘を光景の妹の子で常満保供僧となった長玄に嫁がせており、遠敷郡の牟久氏と結びつきをもった。また丹後国加佐郡池内保(京都府舞鶴市)や丹波国天田郡川口荘(京都府福知山市)へも娘を嫁がせており、丹後東部や丹波北部の土豪たちともつながりをもっていたことがうかがわれる。実家と重員はさらに互いの子息と子女を婚姻させ一門の結合をも強化しようとしており、鎌倉末から南北朝期の激動する時期を乗り切るため和田氏はこうしたてだてをとっていった。しかし南北朝動乱のなかで、一族のなかには三方郡倉見荘や敦賀郡金ケ崎・丹後国宮津や京都へ出陣し戦死する者もあった(資9 若狭彦神社文書二号)。応安の国一揆では、大飯郡の本郷・佐分・青らの諸氏と同じく守護一色方について戦い(「守護職次第」)、そののち本郷・佐分氏らが幕府奉公衆となったのに対し、和田氏はそのまま一色氏に属した。武田氏の若狭支配下では和田は武田家臣粟屋氏に押さえられており(「賦引付」二など)、また和田氏の若狭における史料上の所見もなくなることから、和田氏は一色氏とともに丹後へ移ったものと推測される。天文年間(一五三二〜五五)、丹後において和田三郎衛門がみえるのをはじめ、和田新右衛門・同縫殿助・同八郎などが知られる。そのうち和田三郎衛門は、一色家臣で「国の御奉行」であった宮津小倉氏の「そうしや(奏者)おとな」となっており、また和田新右衛門・同縫殿助は、同じく「国の御奉行」である石川氏の「おとな衆」としてみえている(「丹後御檀家帳」)。



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