目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      河崎氏
 河崎氏は若狭国河崎荘を苗字の地とするが(資2 永田一馬氏所蔵文書一号)、河崎荘がどの地にあたるのかは未詳である。河崎光信は(「相国寺供養記」)、「かわさき光信」と記されており(オ函九六)、河崎は「かわさき」と訓んだ。建武三年七月、斯波時家が小浜に入部するさい脇袋・三宅・和久里・多田に続いて焼き払った遠敷郡の在所のなかに「河崎」がみえ(「守護職次第」)、また大飯郡高浜町東三松の小字名として「川崎」が残る。また「こうさき」と称することもあったとすれば、大飯郡の神崎あるいは遠敷郡の「鴻崎」(甲ケ崎)の可能性もあるが(寛正五年七月二十五日付羽賀寺寄進札)、いずれか特定しがたい。
 観応の擾乱の影響が若狭にも及ぶなかで、河崎大蔵左衛門尉やその庶子家など河崎氏一門は他の国人らとともに南朝方に立ち守護斯波氏と戦った。しかし敗北し、観応三年四月二日その所領は没収され足利尊氏により延暦寺の山徒一揆衆に与えられており(資2 永田一馬氏所蔵文書一号)、一族の河崎信成は、神宮寺への田畠寄進にさいして北朝年号を使用しているように(資9 神宮寺文書八・九号)、斯波氏に従うようになったと思われる。そののち若狭守護には、文和三年(一三五四)九月に幕府方により細川清氏が補任され入部する。これは若狭国に依然として勢力をもつ斯波氏を牽制するためといわれており、九月から十一月ころに若狭では両軍の戦闘があった。この過程で河崎信成は細川方についたと考えられ、彼は小浜の瀬木(資9 妙光寺文書一号)を本貫としたと思われる家人の世木宗家とともに太良荘の半済を行なったのち、世木と彦五郎の両人に太良荘を占拠させるなど、のちに「国一悪党」と呼ばれる狼藉を働いている。翌四年七月に東寺雑掌はこの乱妨を停止するよう清氏に訴えており(『教王護国寺文書』四一一号、ハ函四二)、九月には尊氏から清氏に対して河崎信成の乱妨を止めるよう御教書が発せられ(ミ函四四)、まもなく信成の狼藉は排除されたと思われる。しかしこのことを契機に信成は細川氏を離れ南朝方と通じるようになっていったようで、延文二年(一三五七)に彼が神宮寺に充てて認めた祈願状には正平という南朝年号が使用されている(神宮寺文書一一号)。南北朝期の動乱のなかで、河崎氏はこうして巧みに立場を変えながら存続していった。一色氏が若狭守護となるとその被官となり、応安の国一揆では一色方について戦っている(「守護職次第」)。そして河崎光信は、明徳三年(一三九二)八月に将軍義満の相国寺供養の行列のなかで一色範貞の供衆として加わっており(「相国寺供養記」)、また一色氏より太良荘預所職に補され、応永四年三月八日には太良荘百姓の逃散にあたり還住を促すために代官を下すよう東寺公文所へ書状を認めた(オ函九六)。永享年間、幕府奉公衆本郷氏の所領について内宮役夫工米の国における催促を停止するよう命じた守護奉書は、長田因幡入道とともに河崎肥前守に充てて発せられており(資2 本郷文書八九号)、この時期河崎氏は在国守護代とも考えられる地位にあったことが知られる。武田氏入部以降には史料上の所見はなくなり、一色氏とともに丹後へ移ったかあるいは若狭にとどまり一色牢人として戦い没落したものと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ