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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      包枝氏
 包枝氏は、遠敷郡の兼田を本貫としたと推測される。国衙在庁官人の一人として田所にかかわったと考えられ、包枝頼時は鎌倉幕府御家人となっている(ホ函四)。文永十年二月に守護代渋谷経重は大田文の作成について包枝光全に御教書を発しており、光全はその旨を郡・郷・荘・保に伝達した(ア函二五、フ函七)。鎌倉・南北朝期と勢力を保持した包枝氏は、応安の国一揆では守護一色方に属して戦い、それ以後は被官化していったものと思われる。応永十三年から一色氏の小守護代長法寺納の被官として在国奉行を務めた兼田氏や、同じく永享元年から長法寺に替わって小守護代となった松山乗栄のもとで在国奉行となった包枝氏が知られ、時代は隔たるが彼らは鎌倉期の包枝氏の系譜を引く人物と推測される(本章二節二参照)。武田氏入部後も若狭にとどまり、一族のうち包枝清兼(慶賢)は太良荘公文として永享十二年から文正元年(一四六六)ころまで活動しており(オ函一四五、ハ函三一〇・三三八、『教王護国寺文書』一九三二号など)、永正十四年(一五一七)の太良荘山王宮(日枝社)の棟札にも「当庄公文」として包枝備後守の名がみえている(資9 高鳥甚兵衛家文書二一号)。また武田氏の被官となるものもいたようで、永禄四年の逸見氏反乱のさいに武田方として青井山に陣をとった武将の一人に兼田帯刀がいたと伝える(「若狭郡県志」)。



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