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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      多伊良氏
 多伊良氏は本姓を惟宗氏と称するが、在庁惟宗氏の一門ではなく、承久の乱後に遠敷郡松永保に入部した新補地頭と考えられる。松永保地頭惟宗能綱は、貞応年中(一二二二〜二四)に明通寺に対して一段の田地を仏供料として寄進したのをはじめ(明通寺文書一七・二〇号)、宝治二年(一二四八)には四至を定めた土地を(同一七号)、また建長四年以前にも院主職とそれに付属する所領を寄進しており(同三号)、松永への入部と同時に多伊良氏は当地にある明通寺と深いかかわりをもつようになった。そののち地頭としてみえる兵部房頼尊は明通寺の僧にもなっており(同六号、ル函一四、ム函八)、同時期に松永保地頭代であった大弐房頼印も明通寺の僧であり(む函一五二、ル函一二)、ともに多伊良氏の一族であろう。この二人は太良荘末武名の相論のなかで、脇袋範継の耕作していた同名の保一色田を文永四年(一二六七)に押領したとされる(む函一五二、ル函一二〜一四など)。また正応元年(一二八八)に若狭一宮の造営に尽力するようにとの幕府の意を受けた六波羅探題からの施行状が、新補地頭である頼尊と本郷隆泰とに充てて発せられており、頼尊は本郷氏とともに造営奉行として地頭・預所・御家人らを指揮して一宮造営にあたっている(ム函八)。やがて松永保地頭職は、のちに「故大殿」とみえる多伊良小太郎能信に伝領されたと考えられ(『教王護国寺文書』三八五号、明通寺文書一七号)、彼は正和五年(一三一六)に明通寺へ田畠一町五段を寄進し、子孫繁昌・一門安穏を祈願している(明通寺文書九号)。
 鎌倉末期に獲得した三方郡田井保地頭職を兼ね(ユ函一二)、かつて能綱の寄進した明通寺院主職の補任権をもち、また「山副殿」と称された多伊良十郎能泰ら庶子家を束ねる「惣領殿」としての地位は、遅くとも建武二年には多伊良小太郎隆能が伝領していた(明通寺文書一三・一六〜一八号)。南北朝動乱において隆能は庶子を率いて武家方についており、翌三年八月二十八日には武家方斯波時家の押さえる小浜を奪回するため越前から入部した公家方の軍勢に、松永は焼き払われている。隆能らは遠敷郡と大飯郡の境にあたる勢坂の警護を務めるなど時家の軍勢に加わって戦いを続け、九月五日には再び武家方が小浜を奪還した(同二六号、「守護職次第」)。しかし、南北朝期の動乱のなかで多伊良氏は地頭としての地位を失い松永の地を離れたようで、康安二年(一三六二)には「先給主太伊良」に替わって地頭として大内和秀がみえている(明通寺文書三九号)。永徳元年(一三八一)、若狭守護である一色詮範のもとで京都において侍所両使となっている多伊良政朝が知られるが(ヒ函六七)、松永を没落して以降の若狭多伊良氏の動向については未詳である。



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