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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      片山氏
写真154 片山正次大般若経寄進置文(明通寺)

写真154 片山正次大般若経寄進置文(明通寺)

 片山氏は遠敷郡の野木に居を定め、能世氏とも称した。もとは武蔵国片山郷(埼玉県新座市)を苗字の地とし、承久の乱後に東国御家人の一人として丹波国船井郡に入部したといわれている。そののち一族のなかに、丹後に移って丹後国守護一色氏に従うようになった者があったと思われる。一色氏が若狭守護となり、応永六年(一三九九)今富名代官に石河長貞が就任したさい、その又代官として片山行光(光蓮)が若狭に入部した。行光は同二十一年に長貞の子である石河長祐が代官職を離れるまで、在京する代官に代わって小浜の宗覚のもとを政所屋敷として実務を行なった(「税所次第」)。そのさい片山氏一族のなかには野木に居を定めていた者があったと考えられ、永享十二年(一四四〇)武田氏が若狭守護となったときも、一色氏とともに若狭を離れることなく野木にとどまった。文明年間には「能義片山太郎左衛門尉正次」が知られる(資9 明通寺文書七七・七八号、能世平内家文書二号)。彼は行光のとき以来の小浜の刀や問丸とのつながりを背景とした商業活動などを通じて蓄えてきたと思われるかなりの財力を有しており、文明六年には芝田太郎左衛門に三〇貫文を預け置き、同七年以前には賀茂社司である森雅楽助に遠敷郡賀茂(宮川)荘の年貢を担保として五〇貫文を(「政所賦銘引付」)、同九年には「能世太郎左衛門尉正次」と称して近江国今津三郎左衛門に四〇貫文を貸し付けるなど(「賦引付」二)、高利貸のような活動を行なっている。また信仰を寄せた明通寺へは、文明八年に自らが買得した「宮川中寺」堂田等を寄進し、さらに同十年には当寺が質入した大般若経六〇〇巻や本尊絵像などを請け返して改めて寄進した(明通寺文書五九・七四・七五・七七・七八号、能世平内家文書一・二号)。彼は幕府料所である遠敷郡富田郷の公文となっており(「政所賦銘引付」)、先にみた貸付金の返済を要求した訴訟を武田氏ではなく幕府に提出している。また一族の「若州野木片山新次郎」は文明九年に上洛して幕府政所代蜷川親元に会い、彼を通じて一貫文を伊勢貞宗に進納した(『親元日記』同年二月朔日条)。このように片山氏は、一色牢人でありながら豊かな財力を蓄え幕府と関係をもちながら武田氏支配下でも存続しており、戦国期に入っても武田氏領国支配の中心である遠敷郡にあって独自な活動を展開していた。
 十五世紀末以降の片山氏の活動については詳らかではないが、若狭の密教系寺院が執り行なう千部経読誦の場の一つに「能世方」がみえ(明通寺文書一一八号)、これは明通寺へ信仰を寄せた片山氏のことをさしていると考えられる。戦国期末に武田の家士の一人として「野瀬日向守」がいたと伝え(『拾椎雑話』)、一族のなかには武田氏に属するようになる者もいたのかもしれない。



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