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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      池田氏
 池田氏は、遠敷郡の遠敷谷の口にある小字名の池田の地を本貫としたといわれている。平安末から鎌倉初期のころ、池田頼季は国衙在庁官人の一人として税所にかかわっていたと考えられる。その子である四郎恒頼は小南入道の子とも称されており(資9 若狭彦神社文書二号)、頼季は万徳寺のある金屋付近に勢力をもったと思われる小南氏と姻戚関係を通じて結びつきをもつようになっていたことがうかがわれる。しかし頼季は幕府の御家人にはなっていない。子の恒頼は一宮十一代宜景尚の娘で上下宮御子勾当であった女性を妻とし、多田を拠点に木崎・和久里・安賀氏らと姻戚関係を通じて結びつく多田氏に孫娘を嫁がせており、また曾孫にあたる刑部房は国祈所の供料所である常満保の供僧となった(同前)。一方、頼季のもう一人の子である六郎尚頼は寛喜三年(一二三一)十二月に税所又代官となっており、その職は弘安八年十月まで子の池田兵衛大夫忠氏も勤めている(「税所次第」)。このように鎌倉から南北朝期において池田氏は、国衙税所とかかわり、また婚姻によって一宮宜家や他の在庁官人・国人たちと密接な関係をもっていた。こうしたなかで観応元年(一三五〇)には、守護として税所の掌握をもくろむ山名時氏により、税所代の職を世襲してきた海部氏に替わって池田藤左衛門子息が一時的に税所代に就くこともあった(二章二節参照)。
 一色氏が若狭守護となり応安の国一揆が勃発したさい、池田氏が守護方と一揆方のいずれに属したのかは未詳であるが、そののちも池田氏は存続している。室町期には、宝徳三年(一四五一)の野代村上下産神の造立棟札に本願人としてみえる池田貞祐をはじめ(資9 妙楽寺文書二八号)、文明七年に泉涌寺舎利料を野代の妙楽寺へ寄せた三郎左衛門尉忠祐・弥三郎定祐や(同二号)、寛正五年(一四六四)・文明元年にそれぞれ妙楽寺へ如法経料を納めた池田元安・同定員らが知られ(妙楽寺寄進札)、池田氏が妙楽寺の所在する遠敷郡富田郷内にあたる地域を勢力基盤としていたことをうかがわせる。この富田郷は室町期に幕府料所となり、池田氏は幕府との関係を強めていた。池田定員は、文明元年に小浜問丸中西次郎衛門から買得した今富内小石丸名について、その安堵を同八年七月に武田氏ではなく幕府に申請しており(「政所賦銘引付」)、また幕府政所に勤仕して執事伊勢氏へ諸事を取り次ぐ奏者としてみえる池田治部入道も(『結番日記』文明十二年十月朔日条)、若狭池田氏の一族と推測される。池田氏はこうした幕府との結びつきを背景に、戦国期に入っても武田氏には属さず、領国支配の中心である遠敷郡において独自の立場を保持していたものと思われる。しかし、戦国期末にみえる池田弥五郎や宮川の池田弥三郎・同越州などは武田氏の被官になっていたと推測される(資9 栗駒清左ヱ門家文書一三・一四号、明通寺文書一三八・一三九号)。武田氏滅亡後の天正四年の伊勢神宮神職の檀那帳に池田弥五郎・同筑前守の名が記されており(『拾椎雑話』)、彼らは旧武田家臣の一人として丹羽氏に従ったと思われる。一方、富田郷の池田氏については、延享三年(一七四六)に尾崎村に居住した池田勘右衛門や享和元年(一八〇一)に妙楽寺無尽講の借用証文を認めた池田勘右衛門がみえ(妙楽寺文書五八・九三号『小浜市史』社寺文書編)、近世にも存続した。



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