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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    三 越前の土豪
      深町氏
 深町氏は「後山殿」と称されるように、坂井郡坪江郷後山を拠点にした。深町氏の史料的初見は、正和五年(一三一六)、三国湊の津料をめぐる紛争から深町式部大夫などが十禅師御簾神人を殺害した事件である(「大乗院文書」)。南北朝期の貞治四年(一三六五)、深町法眼が遠敷郡太良保地頭方の兵粮の徴収に対して奉書を発するなど(タ函一五)、守護斯波氏の被官であったことが知られるが、貞治六年には今立郡真柄荘において、真柄氏とともに朝倉高景の預状があると称して守護畠山義深の遵行に従わない様子がみられ、朝倉氏との結びつきによって活動していたことも知られる(資2 保坂潤治氏所蔵文書三号)。また三国湊に関しては、永徳元年(一三八一)に廻船交易関所を三国湊の住人である深町・北村・島津一族が押妨している(資2 宮内庁書陵部桂宮家文書一号)。これらの事件を通じて、深町氏が三国湊にも勢力をもち、津料徴収に関与していたことがうかがえる。
 さらに、坪江郷御講米などをすべて未進してそれを督促されたり(「大乗院文書」)、室町期には深町弥三郎久清が坪江上郷公文円満名の年貢の徴収を命じられているなど(『雑事記』寛正四年十一月二十八日条)、坪江上郷全体にわたって勢力を有するようになったと考えられる。降って、永禄四年(一五六一)以降の河口・坪江荘における年貢等の納入状況を記した「河口荘勘定帳」によると、深町式部少輔・同左京丞が本役銭などを納入している(「大乗院記録」七)。
写真151 朝倉光玖書状(龍澤寺文書)

写真151 朝倉光玖書状(龍澤寺文書)

 また文明元年(一四六九)、斯波義廉と朝倉氏の対立のなかで、朝倉孝景は深町久清に加勢を依頼するとともに知行分の安堵を約しているから、このころより朝倉氏の支配下に属したのであろう(資2 尊経閣文庫所蔵文書三九号)。延徳三年(一四九一)、朝倉光玖は竜沢寺四至内の禁制違反の交名注進を深町出雲守・武曾左馬助・杉若宗右衛門に命じている(資4 龍澤寺文書二七〜二九号)。杉若氏に充てた光玖書状のなかでは、朝倉貞景を「殿様」と記して身内的表現が使われているのに対して、深町・武曾両氏に対しては貞景を「孫次郎」と記しているから、両氏が朝倉氏の身内と区別される「国侍」としての扱いを受けていたことがうかがえる。
 また、竜沢寺の寺領を知行していた深町民部少輔・同中務丞宗永や武曾信濃守などは未進が重なり、竜沢寺の訴えに応じて朝倉氏から直納が命じられた(同三二号)。



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