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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    三 越前の土豪
      池田氏
 池田氏は摂津国池田荘(大阪府池田市)の出身とも考えられ、甲斐氏の被官となり越前の小守護代として入国し、今立郡池田荘に拠点をもったとみられる(「池田殿略系図書写」)。池田氏は歴代の官途として、勘解由左衛門尉を世襲している。永享十一年(一四三九)と文安三年(一四四六)に、小守護代としてみえる池田勘解由左衛門尉は池田久時と考えられる(「河口荘兵庫郷公文政所間記」、資6 三田村士郎家文書三号)。
 池田荘に関する池田氏の発給した文書としては、常安・月ケ瀬両村の小白山や薬師堂への寄進状や安堵状などが知られる(資4 上島孝治家文書二・九・一〇号)。これらの史料から池田氏は常安・月ケ瀬の惣百姓や宮座との関係を深めながら、在地支配にあたっていたと考えられる。また、この池田荘に関して朝倉氏の発給文書がみえないように、池田氏は長く朝倉氏に服することがなく、池田荘へ袖判を据えた安堵状を発給している人物が、池田氏の上級権力者と考えられる(同四・五・八号)。この人物は、池田荘に隣接した今立郡鞍谷荘に拠点を置いた、越前守護斯波義廉の子孫である鞍谷氏であろう。しかし、大永年間(一五二一〜二八)末に鞍谷義俊が死没すると、鞍谷氏は朝倉氏の被官となり、その支配下にあった池田氏も朝倉氏の被官になったと考えられる。
 池田氏の滅亡は、元亀三年(一五七二)である。朝倉氏が織田信長に包囲された小谷城の浅井氏を救援するために近江に出陣すると、朝倉義景に従軍した池田隼人助景久は信長方に内通しようとして露見し、子供とともに斬首されたと伝えられる(「朝倉始末記」)。
図37 池田氏系図

図37 池田氏系図




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