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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      若狭の奉公衆 佐分氏
 各番帳の一番に属した。佐分氏は大飯郡佐分郷を拠点とした国人領主であり、鎌倉期は幕府の御家人であった。承久の乱ののち、佐分氏をはじめ国御家人たちは地頭に所領を奪われたが、寛元元年(一二四三)に御家人役の確保のため御家人の所領保護の方針が幕府から出されると、六波羅探題北条重時は佐分蔵人にその遵行を命じた(ノ函一)。このように、佐分蔵人は国御家人として中心的な役割を果たしていた。建長二年(一二五〇)、若狭国御家人の得替の様子を書き上げたなかに、佐分四郎入道(時家)跡として青保公文職・佐分郷内恒国名田畠が記され(同前)、佐分氏の拠点を具体的に知ることができる。
写真150 大飯郡佐分郷

写真150 大飯郡佐分郷

 南北朝期になると、康永元年の天竜寺綱引・禄引に臨んだ足利尊氏・直義の「両殿御出供奉人」に佐分左近蔵人がみえ(「天竜寺造営記録」同年十二月五日条)、さらに貞和元年、天竜寺供養のための尊氏・直義の行列の「諸大夫」に佐分左近大夫がみえ(『園太暦』同年八月二十九日条)、近習としての活動が知られる。また、賀茂造替要脚のための若狭国段銭納入にあたって、佐分越前入道が事書を提出し、幕府はそれにもとづいて本郷詮泰に徴収を命ずるなど、大飯郡において幕府の命令遂行の中心的な役割を果たしていたことがうかがえる(資2 本郷文書六六号)。さらに、本郷詮泰とともに佐分平五郎が段銭徴収の両使の一方を務めている(同六七号)。また、応安の国一揆では守護一色詮範に加担しているが(「守護職次第」)、戦国期になると武田氏の家臣武藤上野介が佐分利殿と称されてこの地を支配したと伝える(「若狭郡県志」)。



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