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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      若狭の奉公衆 大草氏
 「長享番帳」以後、二番に属した。建武三年(一三三六)、越前の南朝方の勢力に対した北朝方の人物として大草伊豆守がみえる(弘文荘所蔵文書二号『福井県史研究』一〇)。また康永元年、天竜寺綱引・禄引に臨んだ足利尊氏・直義の小侍として大草弥九郎公重(二〇歳)が知られ(「天龍寺造営記録」同年十二月五日条)、文和三年、足利義詮が近習一四名に山城国日吉田を領知させたなかに大草孫十郎公顕の名があり(レ函六〇)、さらに、将軍の直轄軍である馬廻衆の一揆契状に「大くさ持継」がみえるなど(越前島津家文書五七号『古文書研究』一五)、近習としての活動が知られる。
 「康正引付」では、大草次郎左衛門が三河国大草郷(愛知県幸田町)の段銭を納入しており、ここが本貫の地と考えられる。しかし大草氏と若狭との関係は、康安二年(一三六二)に斯波家兼に与えられた三方郡田上保地頭職が大草十郎の支配地であったことや(資8 大音正和家文書六九号)、文明八年に大草公友が大飯郡大宝寺の遺跡を一乗寺に寄進していることによって知られる(資9 中山寺文書一八号)。さらに文明九年に大草三郎太郎が料足二五〇貫文の返済に大飯郡青荘の年貢を充てるように命じられ(「政所賦銘引付」)、同十五年には大草三郎左衛門尉公友が借銭の質券地に青郷内の保小和田と難波江村両村の代官職を入れていたとあるから(同前)、時期は確定できないものの、「永享番帳」の作成された文安元年から同六年以降、大草氏が奉公衆に編成されるとともに料所青郷が預け置かれたと考えられる。さらに、大草氏は郷内難波江城に拠って大成寺の開基となったと伝えられる(『若州管内社寺由緒記』)。
 その後、青郷は武田元光の請負地となり、天文七年に元光はさらに三年の請負期間の延長を幕府に要請している(資2 成簣堂文庫所蔵文書五号)。そのため大草三郎太郎公広は、三年の約束が過ぎると武田元光から青郷が返還されるよう幕府に要請している(『大館常興日記』天文十年二月二十七日条)。永禄八年(一五六五)には織田信長の使者として大草大和守がみえ(資2 東大史料編纂所 戦国武将文書一号)、その支配下に組み込まれていったと考えられる。



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