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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    六 武田氏の半済と荘園支配
      夫役
 夫役も百姓にとっては重い負担であった。太良荘では永享六年(一四三四)に幕府から守護使不入を確認されて以来、御家人役や守護夫役は懸けられていなかったが、武田氏の代になって、遅くとも文安三年には守護夫の徴発が再開された(ハ函二二三)。宝徳二年東寺が重ねて守護使不入の幕府御教書を得ても、その翌三年には八幡放生会・上下宮神事の人夫を賦課してこれを踏みにじった(ぬ函一〇六)。守護夫でも特に陣夫の負担は大きかった。康正元年(一四五五)には太良荘に陣夫五人と指縄二〇筋が賦課され、京都や若狭での交渉の末、結局三人を負担させられた(し函二三一、ハ函三八一)。百姓らはそののち九月五日になってようやく獲得した陣夫催促停止の幕府奉行人奉書をもって守護方と交渉したものの(ゐ函七〇)、守護側はこれを認めず(ハ函三九五)、結局このときの陣夫費用は総計二三貫四〇〇文にも達した(ツ函二七六)。このため百姓らはその全額を年貢から支出するよう求めたが、東寺はほぼ半分の一一貫五五〇文を認めたに過ぎない(フ函一二三)。その後も守護夫は毎年のように懸けられ、特に守護請となった応仁元年以降は、おそらく納所のような守護所の役人と思われる内藤廉経・岡本章頼・貴志掃部助らから、「御陣つめ夫」「京上夫丸」「立帰夫丸」などさまざまな夫役を厳しく催促する書状が矢つぎ早に太良荘に届けられるようになる。
 以上、武田氏の諸役徴収の実態をみてきたが、太良荘の百姓らがその窮状を東寺に訴える申状には、「騎馬以下数十人の使を率いて庄下(荘家)を譴責」とか(ハ函三二二)、「逸見弾正殿馬上にて上下廿人ばかり御出候て、廿貫文御懸け候」といった(フ函一九〇)、一色氏時代にはみられなかった生の暴力による収奪を物語る文言が並べられるようになる。東寺がもはや守護勢力の侵略になすすべを失った今、百姓らは生活防衛のための新たな道を探らなければならなくなったのである。



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