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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    六 武田氏の半済と荘園支配
      検断
 宝徳二年、太良荘本所方の百姓介大夫と和泉大夫との抵当権をめぐる紛争について、東寺は介大夫ともう一人の関係者である半済方百姓太郎大夫を召喚しようとした。これに対して半済方代官山内は、太郎大夫の召喚を「更々心得申さず候」などと激しく抗議しているが(ハ函四一〇・二四一)、山内自身本所方・半済方の相互不可侵原則を遵守するつもりはなかった。そのことは、本所方百姓の和泉大夫をこの年の春に文書偽造の罪で「堅くせつかん(折檻)」しようとしたことでもわかる。
 一色牢人が徳政一揆と連携して蜂起した享徳元年(一四五二)、守護方は和泉大夫父子を徳政を企て牢人を引き入れたとして閏八月二十六日死罪にし、家や資財を没収したうえ田の作物まで本所方の人夫に刈らせた(ハ函三九〇・二五四、『教王護国寺文書』一五〇九号など)。この守護側の処置は、「百姓等の事は、たとい大犯たりといえども、罪科においては領主の所意たり」(ニ函五八)とする荘園領主の法理を真っ向から否定すると同時に、守護使不入を繰り返し確認してきた幕府御教書をも反古にするものであった。さらに寛正六年(一四六五)、守護方は和泉大夫の子の泉大夫が前に売却した半済方の山の木を伐って売ったことを問題とし、彼の家を差し押さえるとともに荘内の竹木を伐り取ったうえ、人夫・伝馬まで懸けている(ノ函三二五、ハ函三三九)。
 ところで寛正四年二月に本所方に土地をもつ半済方居住の百姓弥太郎(泉大夫の子)と、半済方に土地をもつ本所方百姓左近大夫が、債権をめぐって争った。この相論は、「けんだんの事ハ一円ニ半済方より御沙汰」あるべしと主張する半済方代官のもとで審議が進められたが、そのさい物証をもたない左近大夫の証言の真偽を確かめるために、中世に広くみられる湯起請という方法が採られた。これは、神前で熱湯のなかの石を取らせて手の火傷の具合で判定するもので、いわば神に裁定をゆだねるのである。結局左近大夫の主張が認められ、弥太郎が有罪となったが、公文慶賀の嘆願で処罰は免れた(ハ函三六〇〜三六二・三六四・三六五)。さらに、文正元年(一四六六)九月の百姓らの訴えによると、半済方代官は「御本所をもおしなべて」検断し、竹木も「御用のまゝ」伐り、人夫は「半済方の如く」徴発すると公言し、百姓らが減免を嘆願すれば「事の外御せつかん」したという(ハ函三九七)。こうして応仁の乱直前には太良荘本所方は半済方同然となり、東寺の荘園領主権はもはや形ばかりのものとなったのである。



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