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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    六 武田氏の半済と荘園支配
      半済
 一色氏時代に定着した半済は、武田氏の代になっていよいよ確固としたものになった。例えば国富荘では、宝徳二年(一四五〇)二月に半済停止の幕府御教書が出るが、その後、文明元年(一四六九)までの間に四度も同様の幕命が下されているように(『壬生家文書』三四三・六〇〜六二・八〇四号)、武田氏は実力によって半済を強行し続けた。
 文安元年(一四四四)、武田氏は国内寺社本所領代官職の知行を幕府から認められたことによって(『康富記』同年七月十九日条)、半済に加えて本所方にまで支配権を及ぼすことが可能となり、ここに武田氏の荘園支配は大きく進展することになったと思われる。もっとも、太良荘のように従来どおり直務が認められた荘園もあったが(タ函一一九)、その場合でも半済方支配の強化は荘園領主の本所方支配権を次第に脅かしていった。太良荘では新たに山県信政が半済給人となり、その代官山内入道中欖が現地に下って半済方の支配にあたるようになった。かつて「庄主」とよばれる請負人が京都から下っていた一色氏時代とは大きな違いであり、ここに太良荘の人びとにとって守護権力の重みはいっそう増すことになる。
写真146 室町幕府管領畠山持国施行状(マ函八六)

写真146 室町幕府管領畠山持国施行状(マ函八六)

 東寺は宝徳二年三月、莫大な一献料を費やして太良荘などの守護使不入・段銭以下臨時課役免除を幕府から確認された(マ函八六)。しかし、この旨を十月になってようやく若狭へ下達した武田氏は(ニ函五六)、一方で半済方代官山内に「たとひ不入ニ成り候共、公事は以前ニ相替まじ」と指示しているように(ぬ函一〇六)、幕命を遵守するつもりなどなかった。事実このあとも太良荘本所方に守護役が容赦なく賦課されたし、検断(裁判)権についても次第に半済方代官が一円に行使するようになる(後述)。なお、太良荘本所分は応仁元年(一四六七)ごろから守護請になったらしく(ヌ函二二三)、以後同荘は守護権力のなかにすっかりのみ込まれていく。



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