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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
     五 武田氏の領国支配組織
      在京支配機構
 武田氏にとって全くの新天地、それも仇敵となった一色氏の旧分国を継承し支配を安定させるためには、行政・軍事機構を一刻も早く整備することが急務であった。以下、信賢の代の若狭支配機構を在京・在国に分けてみてみよう。
 まず在京機構をみるため、守護の命を若狭に下達した奉書の署名の変遷を表32に整理した。これによると、信賢襲封直後の粟屋繁□(一字解読不能)・山県信政をはじめ、二名連署の場合が単独のものより圧倒的に多く、当初から在京奉行が重要な機能を果たしていたことがうかがえる。単独で奉書を出している者は一般には守護代とみなされ、実際逸見真正はその可能性も小さくないが、粟屋右京亮(のち越中守)繁□と栄長は連署奉書も別に出しているから、やはりこの二人は奉行というべきであろう。

表32 在京武田氏被官による奉書の署名者

表32 在京武田氏被官による奉書の署名者

 ところで、在京奉行のなかでも粟屋右京亮は特別な地位にあった。例えば宝徳二年(一四五〇)二月、東寺大勧進宝栄は若狭で活動するにあたって武田氏から奉書が出されたさい、粟屋右京亮に武田信賢や「守護代内藤殿」と並ぶ最高額の一貫文の礼銭を贈っている(ヌ函一八六)。同様の例はほかにもあり(タ函一二五)、彼が一般の奉行を超える立場にあったことは疑いない。康正二年(一四五六)六月の文書(『吉川家文書』二八〇号)にみえる「時に執検(執権)」という粟屋右京亮に付された注記は、そうした彼の地位をさすのであろう。このあと彼の地位を継承したのが逸見繁経であったことを示唆する史料はあるが(ア函二一五)、確証はない。



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