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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
     五 武田氏の領国支配組織
      在国支配機構
図34 武田氏の若狭支配機構

図34 武田氏の若狭支配機構

 宝徳二年、東寺大勧進宝栄が礼銭を贈った武田家臣のなかに、先にふれた「守護代内藤殿」のほか「小守護代」「小浜代官」もいた。これらのうち「内藤殿」は在国守護代内藤筑前入道昌廉のことで、その在職は宝徳元年十月から同三年十月まで確かめられ(『壬生家文書』三四二号、コ函二四)、長禄二年(一四五八)七月にはその子とおぼしき内藤筑前守が在職しているので(資2 早大 鳥居大路文書一号)、世襲されたとみられる。「小守護代」については、少なくとも現存する史料のうえでかつての長法寺氏や松山氏らに相当する地位の人物は見出しえない。あるいは宝栄のいう小守護代とは遠敷郡司のことで、守護所を含む若狭中枢部を管掌していたために小守護代と認識されたのではなかろうか。武田氏が一色氏のときにはみられなかった郡司制をしいたことは、寛正六年(一四六五)の文書に「(大飯)郡司等」とあることから確認できる(資2 本郷文書九三号)。この郡司は各郡ごとに置かれ、幕府や守護武田氏の命令を郡内に伝達し執行することを任務とするもので、おそらく安芸ですでに実施していた制度を導入したものと思われる(『萩藩閥閲録』巻五八)。名前のわかる郡司としては、寛正二年十一月の遠敷郡司内藤八郎と(「華頂要略」門主伝二二)、同月から長禄元年十月にかけての三方郡司熊谷美濃入道(信直)の二人が知られる(同、資8 大音正和家文書一一〇・一一一号)。なお内藤八郎以外の遠敷郡司については、永享十二年(一四四〇)十一月に熊谷信直(資9 明通寺文書五五号)、嘉吉三年(一四四三)から文安二年(一四四五)にかけて粟屋右京亮(に函二七七、コ函二四)、宝徳三年十月に再び熊谷信直(コ函二四)がそれぞれ在職の可能性をうかがわせる史料があるが、いずれも確証とはいいがたい。
 ところで、太良荘の段銭催促停止を命じる在京奉行奉書が、寛正四年八月には入江左京亮・山中但馬守・内藤八郎の三人、同五年六月には山中・内藤の二人にそれぞれ充てられている(ハ函三三〇・三三四)。このように、郡司と同列で段銭催促停止を命じられている入江・山中らの立場は在国奉行ではないかと思われるが、もしそうだとすれば、郡司と在国奉行の地位には明確な序列はなかったといえる。それは在国守護代と郡司についても同様で、宝徳三年十月、やはり太良荘の段銭催促停止を命じる在京奉行奉書が守護代内藤昌廉と遠敷郡司というべき熊谷信直の二人に下されている(コ函二四)。要するに、武田氏の在国支配組織では組織間の序列や分掌関係があまり明確ではなかったようである。なお、文書の充名などから入江・山中と同様の地位にあったと推定される者を信賢の代に限って所見の古い順にあげると、妙守監寺・桑原土佐守・袮宜大夫・内藤修理亮・山県三郎左衛門尉・則光太郎左衛門尉・内藤豊前守(廉経)・山県黒法師・粟屋加賀守・市河五郎右衛門尉・粟屋九郎左衛門尉らがいた。
 このほか、奉行の下位にあって段銭以下諸役徴収を司った者として納所(ハ函四〇八、オ函一五九)、徴収の実務にあたった者として上使(フ函一三六)などが知られる。なお、宝徳二年の史料によると長井某が寺社奉行の地位にあったが(ヌ函一八六)、これが在京・在国いずれの職なのか必ずしも明らかでない。
 税所今富名関係では前述したように「小浜代官」の名が知られるが、これはかつて守護代が兼務していた今富名代官のことで、小浜の経済的価値がいっそう高まったことにともなってこのように名称が変わり、かつ守護代から独立した役職とされたのであろう。国衙は武田氏の治下でも一色氏守護時代と同様に段銭配符を留守所下文として発行しており、守護の在国支配機構の一画を担っていたが、戦国期の事例から、小浜代官はこの国衙(特に税所)の管轄や小浜の町の支配にも関わる極めて重要な職であったと思われる(四章三節参照)。以上の検討の結果をまとめれば、図34のようになろう。



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