目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    四 武田氏の地位と信賢の活動
      若狭の政情不安と武田氏
 武田信賢が播磨に出陣していた嘉吉元年、若狭で一色牢人と土一揆が蜂起した。このときは播磨から兵を若狭に急派するとともに、近江の朽木氏など近隣武士の支援も得て鎮圧したが、このあとも享徳元年閏八月ごろ、同三年十二月、文正元年(一四六六)十一月にそれぞれ一色牢人が蜂起した(資2 朽木家古文書六〜八号、ツ函一三二、タ函一七五)。このうち享徳元年・同三年の両度はやはり土一揆との連携によるもので、享徳三年には若狭に徳政令が発布された(本章四節五参照)。また寛正四年四月、小浜に入港した船とその積荷をめぐって武田被官と一色義直被官の小浜住人が紛争をおこしているが(「政所内談記録」)、当時の小浜には一色氏の拠点もあり、代官伊賀氏を派遣して支配していたのである(『親元日記』寛正六年七月十三日条)。 
写真145 室町幕府奉行人連署奉書(ツ函一三二、折紙)

写真145 室町幕府奉行人連署奉書(ツ函一三二、折紙)

このような一色勢力の根強い残存が若狭の政情不安の根底にあったのであるが、武田氏はその打開策として、まず文安元年七月、幕府に「若狭国中寺社本所領預所職(代官職)」の知行を請い認められた(『康富記』同年七月十九日条)。これによって武田氏は、安芸から来住した被官たちに若狭における基盤を付与すると同時に、一色牢人への圧迫を強めることとなった。また、享徳三年の一揆蜂起があった翌康正元年(一四五五)七月には、信賢自ら若狭に下向した(『基恒日記』同年七月二十七日条、タ函一三二など)。信賢はこの年大和に出陣した可能性は残るものの(ゐ函七〇)、以後長禄元年三月ごろ上洛するまでの二〇か月間若狭にとどまっていたと思われる(ハ函二九八)。在京を原則とする守護がこれほど長期にわたって在国すること自体、当時の若狭の政情不安の深刻さを物語ると同時に、それを自らの在国で克服しようとする信賢の強い意欲を示すものといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ