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第三章 守護支配の展開
   第二節 一色・武田氏の領国支配
    四 武田氏の地位と信賢の活動
      中央における信賢の活動
 実質的に若狭守護としての武田氏初代となった信賢は、文明三年(一四七一)六月に病死するまで精力的に活動して若狭支配の基礎を確立した。まず、信賢の中央における地位や活動をみておこう。
 「文安年中御番帳」によれば、文安年間(一四四四〜四九)の信賢は、相伴衆の次に格付けされる「外様大名衆」一九名のなかに列しており、長禄二年(一四五八)ごろにも、同じく相伴衆の次位にあたる「国持衆」(この下に準国持衆・外様衆がある)とされていた(「長禄二年以来申次記」)。すなわち、信賢は相伴衆に列していた兄信栄よりはやや格を下げたものの、幕府内で重要な地位を占めていたといえる。なお彼の弟国信は御供衆とされ(同前)、しばしば義政の供を務めている。
 ところで、幕府においては長禄二年ごろから細川勝元と山名持豊の対立が決定的となるが、武田氏は細川陣営に属した。それは瀬戸内海支配や対外貿易をめぐって西の大内氏と競合関係にあった細川氏が、大内氏の抑え役を安芸の分郡守護武田氏に期待して支持したためである。幕府における武田氏の地位はこうした事情によっても支えられていたのである。
 信賢の家督相続から一年経った嘉吉元年(一四四一)六月に嘉吉の乱がおき、諸大名が赤松満祐退治に向かった。信賢も七月には若狭に「播州発向陣夫以下諸役」を課し(資2 若杉家文書八号)、主として安芸の武士からなる軍勢を率いて播磨に出陣した。武田軍は播磨国和坂・人丸塚(兵庫県明石市)などの合戦に参加したが(『吉川家文書』三九〜四一号)、若狭で一色氏の牢人が土一揆と結んで蜂起して守護代を追放したため(「東宝記」奥書『後鑑』)、急ぎ兵を播磨から若狭に下し、十月に大飯郡佐分郷、十一月に小浜をそれぞれ攻略した(『吉川家文書』二七〇・四二号)。このあとも一色牢人蜂起が繰り返される。
 室町期の守護は原則として在京が義務づけられていた。信賢もあとでふれる一時期を除いてずっと在京し、「国持衆」として活動していたはずであるが、具体的にわかるのは軍事行動ぐらいである。すなわち、文安四年七月大宮七条に乱入した土一揆を宿敵一色氏らと共同で排除したこと(『康富記』同年七月十九日条)、享徳三年(一四五四)八月に畠山家の内紛で緊張が高まったさい、山名教之とともに将軍御所の警固にあたったこと(同 同年八月二十一日条)、寛正三年(一四六二)十月に土一揆鎮圧のため弟国信とともに出陣したこと(『蔭凉軒日録』同年十月二十三・二十五日条)などが確認される程度である。ともあれ、信賢は室町幕府守護として京都に足場を置きつつ、一色牢人蜂起で揺れる若狭と、しばしば大内氏の侵攻にさらされた安芸国の分郡に支配基盤を確立していかなければならなかったが、安芸の分郡支配はまだ健在の父信繁が本拠金山城(銀山城)にいてこれにあたり、信賢は幕府への出仕と若狭経営に専念したものと思われる。



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